1979
1979(昭和54)年12月
県の商業統計調査で、県内のうどん店の数が「約600軒」と推測される数字が出る。
1979(昭和54)年7月2日
香川県と香川県観光協会が、四国新聞に「うどんの日」の告知広告を出す。
1979(昭和54)年5月11日
第1回「さぬきうどん品評会」が行われる。
1979(昭和54)年
「かな泉」や「川福」に続いて県内の旅館や料亭が「うどんすき」のメニューを次々に打ち出し、「うどんすき」がプチ・ブームの様相を呈する。
1978
1978(昭和53)年12月
大平正芳が第68代内閣総理大臣に就任。
1978(昭和53)年
この頃、讃岐うどんの起源について「奈良時代に中国から渡来した唐菓子説」が消え、なし崩しに「空海が中国から持って帰った説」にほぼ切り替わる。
1978(昭和53)年
昭和40年代終盤からこの頃にかけて、県内のうどん店の数について、マスコミや識者の間で「2000軒~4000軒ほどある」という表現が飛び交う。
1978(昭和53)年
海と船の雑誌『ラ・メール』(日本海事広報協会)が讃岐うどん店を紹介。タイトル:「なつかしの青春の港」(文:山田克郎)
1977
1977(昭和52)年10月
単行本『随筆うどん・そば』(山田竹系著・四国毎日出版社)発刊。
1976
1976(昭和51)年
公正取引委員会が生麺の公正競争規約をまとめ、讃岐うどんに「名産、特産、本場、名物」等を表示する場合の基準が定められる。
1975
1975(昭和50)年11月
単行本『食通知ったかぶり』(丸谷才一著・文藝春秋)で讃岐うどん店を紹介。タイトル:「四国遍路はウドンで終る」
1975(昭和50)年6月
『そばうどん』(柴田書店)が、創刊号で讃岐うどん店を紹介。
1975(昭和50)年5月
県の観光ポスターの主役に「讃岐うどん」が初めて起用される。
1975(昭和50)年3月
香川県、香川県観光協会他が第1回さぬきうどんキャラバン隊を福岡県に送る。
1974
1974(昭和49)年11月
『文藝春秋』(文藝春秋)が、連載記事「食通知ったかぶり」で讃岐うどん店を紹介。
1974(昭和49)年
香川用水が開通する。
1973
1973(昭和48)年11月1日
うどん玉の卸値が1玉20円に値上げ。
1973(昭和48)年7月
香川県が「高松砂漠」と呼ばれるほどの大渇水に見舞われる。
1973(昭和48)年7月
四国新聞に「讃岐の手打ちうどんの始まりは弘法大師が唐から秘法を持ち帰り教えたものと伝えられている」という“空海持ち帰り説”が唐突に登場する。
1973(昭和48)年5月
川崎製鉄計量器部が開発した「うどんの自動調理販売機」が香川県に初お目見え。
1972
1972(昭和47)年12月
単行本『随筆さぬきうどん』(山田竹系著・四国郷土研究会)発刊。
1972(昭和47)年
うどん店の新聞広告がさらに急増し始める。
1972(昭和47)年
サラリーマンの昼食仕様の「大衆セルフうどん店」が増え始める。
1972(昭和47)年
この頃、「讃岐うどんの発祥地は琴平」だと言われていた。
1972(昭和47)年
琴平町内のうどん業者が集まって「こんぴらうどんの会」を結成。琴平のうどんを「こんぴらうどん」としてPRを始める。
1971
1971(昭和46)年
うどん店の新聞広告が増え始める。
1970
1970(昭和45)年8月
うどん玉の卸値が1玉14円に値上げ。
1970(昭和45)年4~5月
天候不順で県産小麦が壊滅状態に。以後、県産小麦の生産量は復活せず。
1970(昭和45)年3月15日
大阪万博開幕。「讃岐うどんの店」の出店は確認できず。「地方自治体館」で讃岐うどんがメニューとして出されるが、新聞記事によると「高くてまずい」という低評価だったらしい。
1970(昭和45)年
この頃、讃岐うどんの起源については「奈良時代に中国から伝わった唐菓子が原型と言われている」という話しか出てこない。
1970(昭和45)年
この頃、宮脇朝男農協中央会長が「うどんはノドで味わうんじゃ。嚙んだらいかん」と連発していたらしい(佐々木正夫先生の証言)。