小豆島旧池田町民おなじみ「小西のうどん」
- 小さい頃(昭和40年代)、どんなうどんを食べていましたか?
-
地域の行事ごとに食べるくらいで、わざわざ買ってまでうどんを食べることはなかった。小豆島にうどん屋いううどん屋もなかったし、素麺を作る工場は多かったけど素麺を食べるお店もなかった。食堂に「かやくうどん」みたいなのはあったけどね。
地区の道を整備したとか、川の整備をしたとか、田植えが終わったらとか、それをきっかけにお母ちゃんたちが製麺所から生うどんを買ってきて、湯だめにして食べていた。紺地に白い水玉の湯のみがあるやろ? あれにイリコの効いたダシ、生姜とネギを入れて食べていた。みんなで一気に食べるから、大きなおでん鍋に湯だめのうどんをなみなみと入れて、机の真ん中にドンと置いてみんなでつついてたなあ。
- そのときのうどんはどこで買ってきていましたか?
- 池田にあった「小西製麺所」やね。今でもあるよ。子供心にめちゃくちゃうまいなあと思ってた。池田の人がうどん食べるいうたら「小西」。「今日は小西のうどんやで」と言われると、食べる時にみんな喜んでたね。お使いでも行ったことあるけど、僕は生うどんしか買わなかった。でも小西はスーパーにゆでうどんを卸してたと思うよ。
- 行事で食べる以外に、今みたいに昼ごはんにうどんを食べることはなかったですか?
- 僕の家はスーパーでうどんを買うことはなかったなあ。小豆島やからかもしれんけど、素麺はよく食べた。素麺汁や素麺の「ふし」「ばち」を入れた味噌汁なんかはしょっちゅう。近所の人が普通によっけくれよったしね。それを塩水で戻して、あくる日に再生するんやけどね(笑)。
- うどんはあんまり食べたくなかった?
- いや、うどんも食べたかったよ! 小西のうどんだったらね。小西は別(笑)。
- 学校給食にうどんや素麺が出ることもなかったですか?
- 給食にもうどんは出なかった。焼きそばはあったね。素麺も給食には出ん。高いから出せんのちゃう? 原料で比べたらうどんより素麺のほうがごま油を使う分、原価はちょっと高い。それと素麺を製造する機械も高い。うどんはタライと包丁があったらできるけど、素麺は1つの機械が何百万円もする。それが10機くらい必要で、乾燥場も作ってってなったら2000万~3000万円かかる。その分原価が高くなっとるんやろうね。
- 小豆島にはうどん屋さんはあまりなかったのでしょうか?
- 池田には小西製麺所しかなかったけど、土庄にはほかにも製麺所があったかも? うどんを作っているところ自体、少ない。うどん屋もない。今はうどん屋さんもよっけある。俺の兄貴が亀山八幡宮の下で今うどん屋やってるけどね、すっごい流行ってるよ。
フェリーのうどんも船乗りの食事も「小西のうどん」
- 今、小豆島でお素麺を作ってらっしゃいますが、昔から作られてたんですか?
- いや、脱サラしてやり始めた。昭和63年に瀬戸大橋がかかったやろ? それまで僕、フェリーの船員やったん。長男が昭和62年に生まれたんやけど、それが妙~に可愛ゆうて。船に乗るんがアホらしゅうなってて27歳で転職して、下請けの手延べ素麺の工場を始めた。船に乗ってたらお金にはなるけど…土庄から高松行ったり、丸亀から下津井行ったり。あっち行け~こっち行け~って言われるから家になかなか帰れんかったからね。
- その頃からフェリーのうどんはありましたか?
-
フェリーの売店にうどんがあったね。池田の小西製麺所のゆでうどんを袋で仕入れていて、注文がきたら湯煎で温めて出してくれていた。「かけ」というより「かやく」やね。かまぼことかネギとか天カスがのっていた。メニューにはほかにも「きつね」があったように思う。ダシは売店の人が作ってたけど、うどんはよく売れてたように見えたよ。
値段は「かやく」で120~130円くらいやったかな。フェリーの料金は310円くらいで、高速艇はその倍の料金やったけど…フェリーに乗ったらうどんを食べたくなるもんやから、高速艇より高くつくわなあ(笑)。
- 船員のごはんにもうどんが出た?
- 出たというより、出していた。船には船員が常時10人乗っていたけど、一番若いもんはみんなのご飯を作って、掃除からなにからするのが仕事。寝るのは一番遅いし、起きるのは一番早い。自分が飯炊きのときは船の売店が小西のゆでうどんを使ってるのを知っていたから、ゆでうどんとダシを貰って買ってごはんに出してた。こっちのほうが手っ取り早くてうまいからなあ。
そうめんの「まさご屋」がうどんを開始
- 真砂さんはなぜお素麺を作ろうと思ったのですか?
-
子供の時、同じ小豆島のお素麺屋の子がようけお金持っとったんやわ。それを見て、「まあ~素麺屋って儲かるんやな~」とずっと思ってた(笑)。うちは今、うどんもやってるけど、うどん屋になろうと思ったんは素麺をし始めてから。今から25年か26年前に、高松のスナックのマスターから「素麺はいつまで続くかわからん。うどん屋にせえ。うどん屋はコツコツしたら絶対成功する。手広くしないで、家族が食うて行くくらいやったら絶対うまくいくから」て言われて…「あ、そうなんや」とずーっと思ってて。
それで、素麺しながらお金が貯まってきたから、うどん屋をやる時のためにと、高松市岡本町に小さい土地を買っておいた。そうしたら、うどん屋をやる時がとうとう来たんやね。長男が少年野球をし始めて、小豆島におったらクラブ選手になれんからと、子供連れて高松に来ることになった。そうなったらもう素麺に身が入らんようになって、素麺の下請けを任せてくれてた親父さんからも下請けを断られて…「ほんだら俺、うどん屋するわ!」と、高松市の岡本町でうどん屋を始めたん。
それからは、高松でうどん屋して小豆島で素麺を作る毎日や。岡本町でうどん屋して終わったら、小豆島に行って夜10時くらいに素麺作り始めて、天日で朝パッと外へ出して。また朝一番のフェリーで高松まで戻って来てうどん屋して、夜に小豆島に帰って素麺を仕舞いして。
そのままうどん屋が流行ったら、素麺を捨てようと思っていたけど…僕がうどんをやろうと思って岡本町に土地を買ってから、開業するまでの間にうどん業界が変わってしまった。スナックのマスターが「コツコツやってたら成功する」と言ってた時代は、確かにこんまい家族でもやっていけてた。でも今はチェーン店も増えたし、こんまいうどん屋は生きていけん。まず駐車場がないことが問題やった。うどん屋をやるのはだいぶ難しくなっていた。
いずれ「こびきうどん」をやりたいと思っている
-
そんな中、カミさんがコツコツ素麺も売り始めたんや。そしたらなんと売れ始めて。それなら素麺を下請けで作るのはやめて、自分の所で作った素麺を自分の店で売ろう! となった。うどんもちょこちょこ続けながら。そのうち息子が高校を卒業して、一緒にお店と素麺を手伝ってくれるようになって…今は店舗も流し素麺屋もできて、夢が進むようになった。
いずれは工房を高松に持ってきて、「こびきうどん」をやりたいと思っている。素麺を作る前の工程で取る麺が「こびきうどん」。手延べうどんは管にかけるの麺の太さが太いもの、こびきは細いまま管にかけて、伸ばさずに取るから素麺よりは太くなる。そのまま伸ばしたら素麺になるけどね。このこびきうどんがうまいと聞いて、いつか手打ちうどんと勝負する店を息子たちにさせたいなと思ってるんやけどね。