香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

さぬき市志度・昭和15年生まれの女性の証言

仕事で忙しい母が料理する時間のないときにつけうどんを食べていた

(取材・文:

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  • vol: 108
  • 2015.09.15

仕事で忙しい母が料理する時間のないときにつけうどんを食べていた

小さい頃(昭和20年代)に家でうどんを食べていましたか?
 まぁまぁ食べていましたよ。季節や節目に関係なく、日常的に。両親は志度寺の参道で店をやっていて、そこで私も生まれ育ったのですが、店が忙しくて母が御飯の準備をする時間がないときに、よくうどんを食べました。
食事をうどんで簡単に済ませていたワケですね。
 その通りです(笑)。だから、サッと食べることができるつけうどんばかりでした。つけうどんは薬味だけで具が要りませんから(笑)。暑い季節にはざる、寒い季節には湯だめにしてうどんを食べていましたが、たまにうどんと一緒に「くずし」が並ぶことがありました。
「くずし」とは何ですか?
 練り物の天ぷらやかまぼこ、ちくわなんかのことです。うどんを食べるときの簡単なおかずにしていました。くずしは家の近くにあった「国方」さんという専門店で買っていました。

麺は志度寺の近くにあった製麺所で

うどんの麺も近くのお店から買っていましたか?
 参道から少し南へ入ったところに「藤本」さんという製麺所があって、いつもそこで買っていました。私もよくお遣いに行きましたよ。「藤本」さんのところには麺を作る大きな機械があったのを憶えています。
どんな機械でしたか?
 生地の塊を入れると、後は自動で麺の状態にしてくれる機械です。機械にはいろんなローラーが付いていて、生地を伸ばしたり、押し出したり。そして最後は機械の下の方にある口から麺を吐き出します。ところてんの天突き器のような感じでしょうか。吐き出すスピードは早くありませんが。ある程度の長さまで出ると、ハサミが入りました。 お店の人は麺が出来上がる度に、その麺をリボンのように真ん中で〝くるっ〟と折り返してもろ蓋に並べていました。
うどんの麺以外にその店で売っていたものはありますか?
 記憶が定かではありませんが、豆類なんかも販売していたように思います。また販売だけではなく、物々交換ができたかも知れません。

祖母は自分で麺を打っていた

ご自宅でうどんの麺を作ることはありましたか?
自宅ではありませんでしたが、祖母の家では作っていたようです。高松の塩上町に家がありましたが、私たち家族が訪れると祖母がうどんをよく打ってくれました。1メートル四方ほどの大きさの、麺を打つ木の板があったのを憶えています。
そのときに食べるのはどんなうどんでしたか?
 打ち込みうどんでした。自宅で食べるうどんとは違い、手間暇が掛かって具も色々と入っていましたね(笑)。

志度寺の門前商店街にあった2軒のうどん屋

お店でうどんを食べることはありましたか?
 近所のうどん屋さんでたまに食べていました。出前をしてもらったことも何度かあります。お店の人が、木のおかもちを提げて来てくれました。
志度寺の近くに出前をしてくれるようなうどん店があったのですか?
 今では信じられないかも知れませんが、志度寺の門前は昔、参道を中心にそれはそれは賑やかな商店街でした。いろんな種類の店が集まっていたのは当然ですが、同じ種類の店が隣り合っていたところもあったほどです。例えば、浜の方の通りでは八百屋が三軒、並んでいました。生活に必要な物をすべてまかなうことができた商店街でしたが、その中に出前までしてくれるうどん屋さんも2軒ありました。
何という名前のうどん店でしたか?
 一軒が「なかよし」さん、もう一軒が「但馬屋」さんという名前のうどん屋さんです。どちらもご夫婦で切り盛りされていて、セルフではなく食堂に近い形の店でした。メニューも似ていて、かまぼこやネギ、花鰹がのったかけうどんと、いなり寿司が食べられました。他にメニューはなかったと思います。
うどんの麺は店で作っていましたか?
 「なかよし」さんも「但馬屋」さんも作っていなかったと思います。おそらく麺は製麺所で仕入れていたのでしょう。商店街同士の繋がりが深かったので、「藤本」さんのところから仕入れていたのかも知れません。
その2軒はいつ頃まで営業していましたか?
 昭和20年頃には2軒ともすでに営業していましたが、シートピア・シドが誕生(昭和57年=1982年)したときには、どちらもすでに店を閉めていました。子どもさんが勤め人になってしまい、後継ぎに恵まれなかったようです。

志度寺の境内にうどんを食べられる店があった!?

他に志度寺の界隈で、うどんが食べられる場所はありましたか?
  それこそ、昔は志度寺の境内にうどんが食べられる店がありましたよ! うどんだけではなく、お土産類や夏になるとかき氷なんかも販売していた店ですが。お遍路さんをはじめ、地元の人もよく利用していました。
何という名前の店でしたか?
 「村川」さんという名前のお店でした。今はもうありませんが当時は志度寺の境内に立派なバベの木が聳えていて、その木の横にお店があったので周りからは「バベの村川さん」と呼ばれていました。
「バベの村川さん」はいつ頃まで営業していましたか?
 「村川」さんのところも私が小さい頃にはすでに営業していましたが、いつまであったかは定かではありません。「十六度市」がなくなった頃に店を閉めたのでしょうか。
「十六度市」というのは?
 毎年7月16日に志度寺のご本尊の十一面観音が一般公開されるのですが、それに合わせて昔は盛大な市を開催していたんです。 境内には露店がギッシリと並び、また参道の商店街も店前にワゴンを設置したりと、まるで大きなお祭りのような賑やかさでした。買い物客も大勢集まり、小豆島からも大漁旗を掲げた漁船がやって来るほどでした。志度寺の横の海岸を漁船が埋め尽くしていましたね。

昔からお茶席で必ず登場する、薬味が和辛子のつけうどん

今では想像もつかないほど志度寺の界隈は賑やかだったんですね。
  栗林公園や玉藻公園で開かれている規模と同じくらいのお茶会も、志度寺で年に数回、行われていました。 そういえば、志度寺に隣接する自性院というお寺で今も年に一回、「天心席」というお茶会が催されますが、そこで毎年必ずうどんが出ます。うどんはつけうどんで、つゆの薬味がなんと和辛子なんです。昔からずっと。なぜうどんが出て、またなぜ薬味が和辛子なのかはまったく分かりません。機会があればぜひ、調べてみてください!
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