香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

木田郡三木町・昭和23年生まれの女性の証言

給食のコッペパンは捨てる子もいたけど、うどんを残す子はいなかった

(取材・文:

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  • vol: 106
  • 2015.09.11

うどん玉は一旦お膳に載せて出して、食べるときに引いてダシを入れて再びお膳に戻す

 三木町で生まれて高校卒業まで香川にいました。父は勤め人でしたから、実家は兼業農家ですね。昔はお葬式とか法事は家でやっていたでしょう。特に法事のときなんかはお坊さんが来て、お参りして、親戚とかが集まって、お膳を出してたんですけど、ちらし寿司とおうどんは必ずついてたね。おうどんは製麺所から買ってくる。もろぶたごと自転車で届けてもらっていたわね。お膳のお料理やおうどんのダシは全部自分のところで作っていました。それがね、お膳の上にちらし寿司とかお刺身とかフライとか天ぷらとかいろいろ載るでしょ。おうどんは、ちょっと深いおうどんを盛るお鉢があるんですよ。それをお寿司の横に置いててね、製麺所から届いたおうどんが、そのまま1玉、2玉と載ってるの。大の大人だったら3玉くらい載せるのね。それをそのまま食べるんじゃなくて、とりあえず載せて出して、食べるときが来たらそれを引いて、温めておダシを入れて、今度は丼に入れて元のお膳に戻す。いったんは全部お膳に載せてお客さんの前に出すわけね。しょうがとおネギは山盛りにしてお客さんの前にボンと置いていた。みんなが好きなだけ取れるように。

お台所では女衆がいて、お湯を沸かしておいて、おダシをつくっておいて、ドンドンお代わりの用意もするのね。中には味の素とお醤油がいいって言う人がいて、そしたらそれを出してたわ。とにかく女衆が次から次へとおうどんのお代わりを勧めてた。物心ついた頃から私が家にいる間はずっとそれが続いてたわね。製麺所の名前は覚えてない。もうなくなってると思うわ。値段も全然覚えていない。

お祭りの日におうどんを食べた記憶はないわね。お祭りは着物を着て近くの神社へ行った記憶はあるけど、家でご馳走を食べた記憶はない。

かけよりちょっと濃いめの甘辛いダシのしっぽくうどんで年越し

 年末に年越しそばってあるでしょう。しっぽくそば。年越しそばって、普通は日本そばでしょう。だけど我が家はしっぽくうどんだったんです。おそばは食べないの。年越しに食べるおうどんは、具がいっぱい入って豪華だった。すごく美味しくてね、楽しみにして食べてた。普通のおうどんのおダシよりはちょっと濃いめの甘辛いダシだった。私は大人になってから、おダシが出るのでそれに鶏肉を加えるようになった。当時は、鶏肉は入ってなかったわね。肉は贅沢品だった。具は、里芋とちくわと油揚げと人参と大根。ちくわがお肉の代わりだったのかしら。普段はおうどん、あまり食べた記憶がないのよね。食べていたんだとは思うけど、頻繁ではなかったのかしら。それか、日常的にとてもよく食べていたから逆に記憶に残ってないのかなと思ったり。お彼岸のおはぎを家で作っていたことと、サワラの押し寿司も作っていたこと、お味噌が自家製だったことは覚えているんだけど。もしかしたら押し寿司と一緒におうどんを食べていたのかもしれないけど、押し寿司の記憶が強烈でおうどんの記憶はないわね。

家でおうどんを延ばす大きな板と棒は見たことあるの。でも、家族が打ってた記憶はない。たぶん、学校に行ってたときとか私がいない間に打ってたんじゃないんかなと思うのね。私自身はうどんを打ったことは一切ないわね。でも戦前の人は100%おうちで打ってたんじゃないかな。

コッペパンは捨てる子もいたけど、ケンチンうどんを残す子はいなかった

 そう思い出した。私、おうどんだけでは食べられなかったの。おかずがなかったらおうどん食べられなかったの。だからしっぽくは好きだけど、かけうどんはだめだった。今は全然平気よ。麺の美味しさやダシの美味しさがわかるようになったから。子どもの頃は、おうどんとお寿司でもだめだった。お寿司はおかずじゃないもの。それに私、おうどんを噛んで食べてたの。何回も怒られてた。でも噛み砕いてでないと喉に通らなかった。だから大人がずるずるっと一気にすするように食べるのが不思議でしょうがなかったわ。それにね、昔の手打ちうどんは今より麺が太かったように思うのよ。今は全体に細くなってるんじゃないかな。それとね、小学校の給食でおうどんが出てた。ケンチンうどん。しっぽくうどんに片栗粉で粘り気をつけたようなうどん。ケンチン汁とか言うのがあってね。それと同じ材料で、片栗粉でとろみをつけて、その中におうどんが入ってた。冬にね、よく出てた。美味しかったから、今でもよく作ってる。子どもの頃の給食の記憶で再現しているのよ。息子も美味しいと言ってくれる。

こってりとしたとろみじゃなくて薄いとろみ。そのうどんは、おかずがかかってるうどんだから大好きだった。普段の給食はコッペパンが多かったけど、ケンチンうどんが出ると嬉しかった。モノがない時代だったけど、脱脂粉乳やコッペパンなんか捨てて帰る子がいたけど、うどんの時はいっぱい食べてた。

みんな農家が多いから、そんなに食べ物に不自由する暮らしはしてなかった。ある意味恵まれてた。ただ、ケーキだのお饅頭なんかは年中食べられるわけじゃなかったけど、普段の食生活に事欠くことはなかったから、それだけにコッペパンや脱脂粉乳はまずかったねぇ。みんな同じ気持ちだったんじゃないかなぁ。うどんを残す子はいなかったと思うよ。

高校時代に製麺所の片隅で生醤油うどんを食べた

 高校時代(昭和40年前後)は山登りの好きな先生に誘われて登山の同好会に入って、一年中いろいろな山に登ってた。その帰りにうどんやおでんを食べて帰った記憶がある。でも、今みたいな独立したおうどん屋さんじゃなくて、製麺所の片隅で打ち立てのおうどんを生醤油だけで食べさせてくれるような店。小さなカウンターみたいなのがあってね。テーブルなんかはなかった。カウンターみたいな細い板がかけてあって、そこに丸い椅子がいくつか並べてあった。顧問の先生に連れて行ってもらったんだと思うけど、お店の名前も場所もまったく覚えてない。三木町の農学部前っていう琴電の駅があるのね。その駅から南に出たら長尾街道に出て、その駅から南に向いた道と長尾街道の交差したところに「多田」っていう製麺所があって、そこが美味しかったってうちの兄が言ってた。そこでうちの兄がよく食べてたという話は聞いたことがある。のれんがあるようなおうどん屋さんは、食堂さんみたいな感覚だったんじゃないかな。入ったことはなかったけど、ちらし寿司やおうどん、おかずだのを置いたお店があったような気がする。町に出たらね。私は田舎の子だから「町に行く」って言ってたの。

連絡船のうどんがおいしく感じたのは、県外のうどんがまずかったから

 高校を卒業して県外に出てからは、特に東京で食べたおうどんがまずかったこと。ダシは真っ黒、麺はぷつぷつ切れる。食文化の違いにショックが大きかった。県外に出た人は帰省したときに食べる連絡船うどんが美味しいっていうでしょう。あれは本来そんなに美味しいうどんじゃないけど、都会で暮らしてる人たちはまずいうどんしか食べられなくて、何年ぶりかで口にする讃岐うどんが連絡船うどんでしょう。だから、めちゃ美味しく感じると思うの。シチュエーションが違うのよ。宇高連絡船の甲板で食べた連絡船うどんが美味しかったって、みんな言うよ。でもそれは味そのものじゃなくて、いろんな思いが詰まっているからなんでしょうね。
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