暑い夏のお昼ごはんは、熱々のドジョウ入り打ち込みうどん
- いつ頃からうどんを食べていたか覚えていますか?
- 私の実家はもともと精米所をしよったから、うどんの小麦粉とかを挽きよった。お米ついたり、麦ついたり、昔のことだから水車でね。だから、うどんはだいぶ小さい頃から食べとったとんと違うかな。昔はお店がそんなになかったやろ。だけん、7月2日の半夏のときにはみんな家でうどんを作っていた。精米所だから、うちにはうどんを作る機械があったんや。こねるのは父親が手でこねよったけど、機械で延ばす。その半生の状態で、お客さんは各自モロブタに入れて持って帰る。それから家で、釜にお湯を沸かして湯がいて食べよった。
- お客さんに半生のうどんを売っていたんですね。
- そうそう。それで、夏は私の親がそうめんも作りよったんや。そうめんは今でも小豆島で、お箸で分けたりするやろ。それをムシロの上で切るときにクズができる。子どもの頃、その落ちたそうめんを拾わされたような記憶がある。お手伝いでね。その拾った分は、お汁かなんかに入れよったんと違うかな。それでね、夏には父親がドジョウ屋さんからドジョウを買う。家には土を焼いたような、ドジョウ入れる大きな素焼きの瓶(カメ)があったんや。その中に行商のドジョウ屋さんから買ったドジョウを入れて、一週間くらいかな、泥を吐かす。夏のお昼は必ずドジョウが入っとる打ち込みうどんだった。具は、ごぼう、揚げ、ナス、里芋、味噌は中味噌。私は小さい頃から熱いんは嫌いだったけど、みんなフウフウ言いながら汗流しながら食べる。
- 精力をつけるために夏にドジョウうどんを食べていたんですね。
- そう、今思ったらそうなんやけど、あの頃は「何でこんなに熱いときに熱いうどんを食べるんやろ? タオルで汗ふきながら何で?」といつも不思議に思いよった。私の家ではほとんど毎日、お昼はそれだったわ。だけど今みたいに真っ白いうどんと違うんよ。ちょっと黄色っぽいというか、黒っぽい感じかな。おそばみたいに黒くはないけど、今みたいに白くはなかったわ。
- 香川で採れた小麦で作っていたからなんでしょうね。
- そうそう。
おご馳走と言えば、おうどんとお寿司
- ご実家の精米所では水車が動力だったんですよね?
- そうそう。電気に変わる前に父親が亡くなってやめたけど、今、大きな香東川が流れとるやろ。その元からずっと井出を引っ張ってきて、水車を回しよったけんね。田植えする時分になったら、田んぼへ水を引く人はいっぺん元を堰き止めて、みなが井出を掃除するわけ。水がどんどん流れるように。お昼はそれをしてもらって、そこにはドジョウやらウナギやら魚がおるから、子どもたちが穫って、それを焼いてもらって食べてたわ。それから夜には手伝ってくれた人におご馳走を出す。おご馳走言うたってお寿司とおうどん、酢の物くらい。田舎の料理。だけどその当時は、お寿司とおうどんゆうたらおご馳走だったからね。そんなにしょっちゅう今みたいにうどんを食べることはなかった。
- 祭りや市、法事にも、うどんを食べていましたか?
- もちろん食べるよ。今でこそ天ぷらは揚げたてが美味しい、言うけど、昔はお母さんが前の日からいっぱい巻き寿司を巻いて、天ぷらもゴボウ、レンコン、サツマイモなんかに赤や黄色や緑の色粉をつけていっぱい作っとくんや。それで当日、親戚の人が来たら、お重箱に入れて持って帰ってもらいよった。時間が経って、もう固うなっとるで。
- お祭りの日に親戚の人を呼ぶんですか?
- そう。それで前の日からお母さんはずっと遅くまで作る。当日にうどんも食べるけど、持って帰ってもらう中にうどん玉も入れることがあった。だけど私は、祭りにお宮さん行ってアイスクリーム買うたりするんが楽しみだった。30円くらいの小遣いもろて喜んで着物着て行きよった。
- お祭りに食べるうどんはどんなうどんだったんですか?
- かまぼことか天ぷら類を乗せよった。お客さんが来とるからいろいろ乗せる。うどんのダシは祭りに限らず煮干しだった。昔は大きな油紙に入れて煮干しを売りに来よったんや。安かったんと違うかな。おダシはね、今ならダシをとった後の煮干しは出すけど、昔は煮干しが入ったままだった。私はそれが好かんかったわ。
家の前に旗を掲げて、バイクのうどん売りに合図を送る
- うどんもやっぱりおご馳走だったんですか?
- そうやのぉ。おうどんとお寿司はつきものだった感じ。うどんは普段も食べよったけど、寿司とセットになったら美味しかった。それからね、昭和44、45年頃にうちところが精米所をやめてからは、うどん屋さんが朝早くうどんを打って、バイクの後ろにモロブタを積んで売りに来よった。だけど、一軒一軒寄るのは効率が悪いでない。だから毎朝、うどん玉が欲しい人は家の前に旗を立てとった。赤とか白とか家によって色は違うけど、その旗が上がっていたら、そのうどん屋さんが止まってくれるわけ。名前は「土居うどん」さん。そこは今でもしよるよ。配達はしよらんよ。配達はいつくらいからしよったんかな。うちが精米所をやってる頃からしよったかもしれんけど、自分ところでしよったから必要なかったけん、その辺りの記憶は曖昧やけど、うちが買うようになったんは精米所をやめてからだったように思う。土居うどんさんは昭和50年頃まで配達しよったんちゃうかなぁ。
中学生の頃、部活の楽しみは「うどんデリバリー」
- 塩江付近で、他にうどん屋の記憶はありますか?
- 「谷岡食堂」のうどんも美味しかった。そこはお店でお客さんにうどんを出す。その当時は自分のところでうどんを打ちよったんちゃうかな。今は違うけど。そこは中学校のすぐそばだったから、夏なんかに部活でテニスしてるとき、お昼、谷岡食堂へ行ってラーメンとかおうどんとかを注文するんや。そしたらおじさんが岡持(おかもち)で配達してくれる。それが楽しみで部活へ行きよるようなもんだった。昭和30年代の初めの頃やね。値段は覚えてない。でも100円以内だったと思うで。その当時はそんなに高くない。それで3時くらいになったら、徳島の方からチリンチリンとアイスを売りに来よった。それを買って食べてた。
- そんな部活中に中学生が配達を頼んだり、アイス食べたりできたんですか?!
- それができたんや。ゆるかったんやなぁ。でもそれは夏休みとか日曜日だけ。
- 土居うどん、谷岡食堂以外で、近所に製麺所はなかったんですか?
- おうどんだけ打つところはなかったわ。土居うどんも谷岡食堂も、いろんなものを出す食堂だった。
冬はしっぽくうどん
- 夏は打ち込みうどんということでしたが、冬のうどんはどうだったんですか?
- 冬はしっぽくうどん。大根、人参、揚げ、それから豆腐を入れたりとかね。おそばもおうどんも同じダシだったんだけど、私が小さい頃はしっぽくはあんまり好きじゃなかった。お母さんがザルで温める。そのときに、前の日に茹でて残ったおそばも嫌いだった。何も入ってないのが好きだった。具があるのはイヤだった。今はしっぽくうどんは美味しいと思うけど、その当時は何も入ってないのが好きだったな。
- しっぽくうどんは法事とか祭りとか特別の日のイメージがあるんですけど、そうでもなかったんですか?
- そうでもなかったね。冬はよう食べてたね。温めてカマボコを切って入れたり。“出来だち”だったらお醤油と味の素をかけて食べた。生醤油うどん、美味しかったなぁ。
子どもの頃のおやつは、兄たちがうどん生地で作るかりんとう
- 精米所だったから、子どもの頃は家でお父さんが打ったうどんを食べていたんですね。
- 最初の練るだけね。後は機械で延ばすから麺棒ではない。それで、うちの兄たちが中学校くらいの頃かな、うどんの生地でかりんとうを作っていた。四角形に切って、真ん中にスジを入れて、ねじて、少しお日さんに干して、油で揚げる。それを兄たちがよく作りよった。
- うどんの生地を油で揚げただけでは甘くはないですよね。
- 甘くはないけど、おやつにしてた。年の離れた兄たちが作ってるのを見よったけど、機械のローラーが回ると、スルメを入れてもビューッと伸びて出てくる。それが珍しくて、自分で踏み台を持って行ってスイッチを入れて、自分の指を入れたわけ。ちょうど兄がおって、機械の音が変わったけん言うて、慌てて止めてくれたんやけど、今でも人差し指に傷跡があるんよ(笑)。
- えぇ! 危なかったですね。だいぶ小さい頃ですか?
- 小さい頃やわ、小学校に入る前と違うかな。それで晩にお父さんがオキシドールで消毒してくれたけど、うちは暴れるやろ。みんなに足を押さえられて赤チンつけた。
子どもの頃は外食でうどんを食べた記憶はない
- 小学校に入る前なら昭和20年代の話だと思うんですが、その頃、外食した記憶はありませんか?
- 子どもの頃に家族で外食はないない。だけど、私の父が運送業もしてたから、1日1回は高松に行く。私もよう乗って行きよったけど、時々高松で肉を買ってきて、すき焼きをすることもあった。大きいお肉で美味しかったのを覚えとる。形は悪いけどお寿司を作ってくれたこともあったし、食べるものにはあまり不自由した記憶はないね。
- 高校時代(昭和35年頃)に友達と外食して帰ることはなかったんですか?
- 高校は塩江から高松までバスで通ってたけど、外食はないわ。「あずまや」や「なんち」があったけど、私はマジメだったからよう行かなんだ。「なんち」は瓦町の駅のちょっと北にある、カレーうどんが有名だった店。明善(現・英明高校)の子はようけ行っきょったと思う。私はパン買って食べることくらいはあったけど、喫茶店は行ったら怒られるし、寄り道はないわ。
農協の昼食は毎日、女子社員が当番制で支度して全員職場でうどん
- 就職してからはどうでしたか?
- 塩江の農協に就職して、1年くらいして19歳で結婚した(昭和39年)。その農協の時代は、帰りにうどん食べてということはなかったけど、お昼は農協のみんなでうどんを食べよったんや。土居うどんとは別のうどん屋さんが農協に玉を持ってくるわけや。そのうどん屋さんがたまにカシワ(鶏肉)を持ってきてくれるん。それをお昼に女の子が順番で、カシワ肉を切ったりネギを切ったりして用意した。ちっちゃい流しみたいなんがあって、コンロがあって、そこでおダシも炊く。
- 農協で毎日、お昼にうどんだったんですか?
- そう、毎日うどんだった。男の人は2玉と3玉とか、毎朝それぞれ何玉食べるか注文をとって、うどん屋さんに言うて、その数をうどん屋さんが持ってくる。カシワはたまにね。ネギはあったけど、カマボコくらいは入っていたかなぁ?
若き日のるみばあちゃんは、残ったうどん玉を売りながら自転車で帰宅してた
- 結婚後はどのようにうどんと関わってきましたか?
- 結婚して鶴市町に嫁いできたんですけど、それからはずっと、今は有名になった「池上うどん」さん。おばさんが自転車で夕方、お店で残ったうどん玉を2つとか3つとか袋に入れて売りに来よった。「うどん、いらんか~い」言うて売りに来る。ご飯が済んどるときに持ってきても、「明日でも美味しいで」言うからよう買いよった。
- 池上うどんがマルヨシセンター鶴市店の近くにあった頃ですね。
- そう。池上うどんは、最初は夫婦でしよって、あそこで食べるんではなくて、ほぼこ(方々)に卸しよった。商店とかに。それが余ったら袋に入れて「いらんなー」言いながら、おばさんが売りながら家に帰る。マルヨシセンターの前でも売ってた。割とコシが強いけん、明くる日に温めて食べてもまあまあおいしかった。池上うどんはだいぶん古いわ。それが昭和40年台の話かな。それと鬼無に「坂本うどん」言うところがあった。香西になるんかな。あそこも美味しかったで。製麺所だった。いろいろと昔を思い出したら懐かしい。あの頃がええわぁ。