田植えを手伝ってもらった周りの農家の人たちにうどんをご馳走した
- 小さい頃(昭和10年代)にうどんを食べていましたか?
- そんなに食べなんだ。今みたいに食べられる店も周りになかったし。家でたま~にありつけたご馳走やったよ。
- どんな時に家でうどんを食べていましたか?
- 田植えが終わった時やな。家は造田で農家をやっとったんやけど、田植えは周りの農家と共同で作業をしとった。それで、自分とこの土地の田植えが終わったらうどんを作って、手伝ってくれた人にも食べてもらっとったな。また逆に、よその田植えを手伝ったらその家でうどんをご馳走になった。 そんな感じで、田植えに合わせて各農家が持ち回りのようにうどんを作っとったで。うどんだけやなくて、バラ寿司や前菜も一緒に作ることがあった。私も小さい時分によう田植えを手伝わされたけど、あめ玉なんかももらえて嬉しかったなぁ。他に家でうどんを食べることができたんは、半夏生と法事と祭りの時。盆と正月にも食べられたな。
製麺所で小麦と麺を交換。一升で10玉
- 麺はどのようにして用意していましたか?
- 家の近くに製麺所があって、そこで小麦と交換してもろとった。小麦を一升ほど持って行くと、10玉くらい麺をもらえた。
- お金は要りましたか?
- 確か要らんかったはずや。
小麦を渡すと、その場で別の小麦粉を練って押し出し麺にしてくれた
- 製麺所の麺は作り置きしたものでしたか?
- いや、違う。その都度、作ってくれた。
小麦を渡すやろ。そしたら店の人が予め用意している小麦粉を出してきて、それに水と塩を加えてその場で練り始めるんや。
- その場でですか!?
- そうや。何度も店へお遣いに行ったから間違いない。それで生地がええ具合になったら、ベルトコンベアーが付いている流線型の、まぁまぁ大きな機械の入り口に放り込むんや。ほいで、しばらく経ったら下の方にある出口から生地がニョローンと麺状になって出てきて、ある程度の長さまで出ると、機械が自動的にチョキンって切るんや。
- ニョローンと出て、チョキンですか?
- そうや。ニョローンの音はなかったけど、チョキンって切る音は機械からしとった。
- 生地の足踏みはしていなかったのですか?
- 店の人はしてなかったなぁ。足踏みのような役割も機械がしとったんかも知れん。ただ、今のうどん屋のようなコシのある麺ではなかった気がするなぁ。
- その製麺所はどこにありましたか?
- 造田と神前の境にあった。大きな道沿いで。店の名前は……。アカン、出てこん。酒屋さんの横にあった。八木っていう酒屋さんの。
- その他に製麺所はありましたか?
- 近くにはなかった。でも一度、三木町の製麺所まで自転車で行ったことがある。
- なぜ、わざわざ三木町の製麺所まで?
- 何か、そこの麺が美味しいからって言われて。お遣いに行かされたで。私は小さかったから、近くの製麺所との麺の違いがイマイチ分からんかったけど。
- その店も小麦と麺の交換ですか?
- そうそう。でも、同じようにその場で作ってくれたかどうかは憶えてない。店の名前も思い出せんな~。
近くで獲ったどしょうを具にすることも
- 交換してもらった麺は、どのようにして食べていましたか?
- 冬場は麺と一緒に大根やニンジン、豆腐、お揚げなんかを入れてしっぽくにした。夏場は素うどんやな。薬味はネギとごまとしょうが。たまにどじょうが具に入ることもあったな。父や兄弟が近くの川から獲ってきた小さなどじょうが。
店を始めて鴨部の製麺所から長年、袋麺を仕入れた
- 大人になってからはうどんをよく食べましたか?
- 結婚してから今も住んでいる漁師町の志度の小田に来たけど、造田の時よりも食べる機会は減った。夫の両親と同居しとったけど、うどんを食べる風習なんてまるでなかったし。ただ年越しの蕎麦は、義理の母親が生地から作ってくれた。うどんは作らんかったのに不思議やなぁ。 昭和44年に夫と小田で商店をやり始めたんやけど、袋に入った麺を仕入れることになって、ようやくうどんが身近になった。売れ残ったその麺を家で食べることも再々あったし。
- どちらの店から麺を仕入れていたんですか?
- 志度の鴨部にあった「大屋敷」さんいう製麺所や。10年くらい前まで営業しとって、それまではずっと仕入れとったよ。
- 志度の小田には昔、うどん屋はありませんでしたか?
- 小田にも昔はいろんな店がポツポツと並んでて、その中に一軒だけ製麺所があった。名前は確か「池田」さんやったと思う。店で食べることはできなんだ。60年くらい前にはすでにあったけど、いつなくなったかは分からん。 でも、小田で住んで60年以上になるけど、家でうどんを生地から作っとったゆう話は聞いたことがない。やっぱり漁師町やから、うどんとの関わりはないなぁ。