中野町「鈴木製麺所」の思い出
- 高松市中野町といえば、うどん店の多いエリアですが…
- でもうどん屋はずいぶん減ったと思うで。いまだに元気に残っとるのは「竹清」やな。「松下」はもっと後(編集部注:昭和45年)にできた。子どもの頃(昭和40年頃)には八幡通りにもうどん屋さんはなかった。
- うどんはどんな時に食べていた?
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基本的にうどんは外に食べに行くものではなかった。うどんは買ってきて食べるもの。晩ご飯やお客(法事より簡略化した集まり)で出すうどんを買いに、近所の製麺所にうどん玉を買いに行っていた。
中野町の市営アパートのあたりにある散髪屋さんの向かいに「鈴木」っていう製麺所があって、家にある器を持って行って玉を入れてもらっていた。うどん玉だけを売っている製麺所で、ダシは売っていなかった。
ただ、店の前でどんぶりに入れたうどんを食べよるおじさんがおったと思う。薬味も何もなかったから、しょうゆだけで食べよったんでないかな。子供の頃は鈴木製麺所以外に近所の製麺所はなかった。まだ「松下」もない時代やから。鈴木製麺はとっくの昔になくなって、もう何十年にもなるから、覚えとる人も少ないんでないかな。
- 製麺所で買って帰ったうどんはどのようにして食べていた?
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晩ご飯で食べる時は「かけ」か「冷やし」。「冷やし」は丼ぶりに水とうどん玉を入れただけのもので、氷は当時高級品やったから、水だけ。薬味を入れたダシを家で作って食べてたなあ。夏は「冷やし」が定番だった。冬場は里芋、人参が具に入った「しっぽく」で食べていた。今でこそ年越しうどんとか言うとるけど、当時は年越しでうどんやそばの麺類を食べることはなかった。
お客の時には「うどん、ばらずし、天ぷら」の3点セットを出すのが定番やった。どこの家もお客のときにはこの3点を必ず用意しとったなあ。子供はお使いでうどんを買いに行って、ばらずしは家でお母さんや近所で作る。うどんは「かけうどん」にして出していた。子供の頃のうどんは「かけ」か「冷やしうどん」だけ。「釜揚げ」なんて食べたことがない。
- 外食として「うどん」を食べることはなかった?
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わざわざうどんを食べに行くことはなかったけれど、よそいきの服を着て商店街に出る時は例外。常磐街の旧ダイエーの向かいに「トキワ食堂」という食堂があって、買い物帰りにそこでご飯を食べていた。オムライスだけでは少し足りないので、うどんをセットにして食べていた。そのうどんは素うどんだった。小学生の頃で、家族が支払いをしていたので値段はわからないけれど。
当時、商店街にも中野町にもたくさんの食堂と銭湯があった。銭湯があれば、その近くに大衆食堂がある。それが昔の町だった。中野町の「八幡平」ももともとは銭湯で、その向かいに2軒の食堂があり、うどんがあったと思う。
- 他に覚えているお店は?
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中学生の頃には「竹清」によく行っていた。昭和45年にはもうあったと思う。あそこは香川県でも初期のセルフスタイルの店で、そこで初めてセルフというシステムを知った。香川では当時セルフスタイルがなかったから、お店の人もお客さんにシステムを教えていたように思う。当時、竹清のほかにセルフの店はなかったから。
竹清はできた当初から店構えが全く変わっていないけど、最初は今みたいに天ぷらをあんなふうに揚げてはなかったなあ。メニューは「かけ」のみ。「ざる」などはなかった。うどん玉の数を申告して、丼に入れてもらって、てぼでゆがくまでは今と一緒。当時はコック式のタンクからダシを注いで食べてたような気がする。
紫雲中学に通っていたから、土曜日のクラブ帰りにみんなで竹清に寄ってうどんを食べた記憶がある。うどんは多く食べるほど割安になる値段設定ではなくて、1玉食べても2玉でも1玉の単価が同じだった。なので、1玉食べて、もう少し食べられる!と思ったら「もう1玉!」とおかわりしていた。