高瀬は家でうどん打っていたけど、詫間の松崎はあまり打ってなかった
- 子供の頃のうどんの思い出って、どんなんがありますか?
- 松崎のここら辺は、うどん文化はあんまりなかったなあ。主人(昭和3年生まれ)は隣の上高瀬出身やけど、主人が子供の時やから昭和10年になるかならんかの頃、高瀬の方では、家でうどんをよう打っとったみたいやで。家で親や年上の兄弟がよううどん打ちよって、それを見よって自分も一辺打ってみとうなってな、親がおらん時に小麦粉の袋を取り出して、分量がわからんきに一袋全部練って作ったらものすごい量のうどんができて、急いで鍋で湯を沸かして茹でて何ぼ食べても食べても減らんで、親が帰ってきたら怒られるきん、畑の柿の木の根元を掘ってそこに残りのうどんを埋めたら、親が帰ってきて「メリケン粉がない、メリケン粉がないぞ」言うて。ほんで主人が「お前知らんか?」いうて問い詰められて、とうとう白状したら「お前はアホやの。埋めんと置いとったらまた食えるやろが」いうて怒られたんやて。そやから、高瀬の方では普通に家でうどん打っちょったみたいやな。
- すごい身内のエピソード付きで(笑)
- そやから、松崎のうちの家で法事するいうたら、宵法事に、宵法事いうたら法事の前夜祭みたいなもんな、その宵法事に大見(高瀬のすぐ隣の三野町大見)の従兄弟らが何人か来て、うちの家で粉から練ってようけうどんを作りよった。たぶんうちのじいちゃんは松崎やから、うどんよう打たんかったん違うかな。私の子供時分やから、戦前の話や。とにかく三野や高瀬の方では家で普通にうどん打っちょったけど、詫間の松崎ではあんまり打ってなかったと思う。仁尾もあんまり打ってなかったみたいやな。仁尾から来た親戚は宵法事でも打ちよらんかったきん。
- 法事のうどんは「つけ麺」だと聞いたんですけど。
- つけうどんやったな。法事の日はお客さんが来たらまずうどんを出して、それからおじゅっさんが来て法事をして、お墓に行って、帰ってきたらお膳をする。
- 何で法事はつけうどんなんですか?
- かけにしたらダシがようけいるきんやがな。つけダシの方がダシがちょっとですむやろ? けど、戦後になって私が法事のこしらえをするようになってからは、ダシもうどん屋で買うて来るようになったわ。
製麺所に小麦を持って行って「乾麺」と交換していた
- その他にはどんなうどんの食べ方してましたか?
- 上高瀬の主人の実家ではその頃(戦前)、小麦ができたらそれを製粉所に持って行って、代わりに乾麺をもらって帰って来るいうのもようあったそうや。
- 乾麺?!
- 家の畑でで採れた小麦を多度津の「村井」いう製麺所まで持って行ってな、ほんで交換で木箱に入った干しうどんをもろて帰った。乾麺やな。それを家に置いといて、いる時に茹でて食べよったらしい。豊中(町)の知っとる人も、「小麦を製麺所に持って行って、代わりに乾麺をもろて帰りよった」って言いよったわ。
- 家で小麦を作ってたんですか?
- ここらへん(松崎)でも小麦も大麦も作りよったで。松崎は大麦は米の裏作で作りよったけど、小麦は水田にならんような小高い畑で小麦だけ作りよった。高瀬や三野は平たいところやから、小高い畑があんまりないから、水田になるような広々した平たい所で小麦を作りよった。
うどん屋に鍋を持って行って、できたうどんをダシごと入れて持って帰って食べていた
- 戦前は近所にうどんを食べさせてくれる店はあったんですか?
- あったで。昭和14年か15年頃、今の詫間駅のそばに「福岡」いううどん屋があった。うどん屋いうても食堂で、酒も出しよったわ。的場の方にうどん玉だけを作って玉の卸しをする製麺屋があって、そこから玉を仕入れてうどんを出しよったと思う。詫間の駅前に「生田」いう旅館があって、そこにも的場からうどん玉を卸しに来よったのは知っとる。
- そこへどれくらいの頻度で食べに行ってたんですか?
- 店の近所の人は時々食べに行っとったみたいやけど、私は子供の頃は食べに連れて行ってくれたことはない。病気で熱が出たりして食欲がなくなった時に、親が「この子、もの食べんようになった。うどん買うてきてやらないかん」言うて、鍋を持って「福岡」のうどん屋に行って、うどんを入れて持って帰ってきて食べさせてくれよた。
- うどん玉でなくて、できたうどんを鍋で持って帰っていたんですか?
- そう。出来上がったうどん。ダシも入って店でそのまま食べられるやつを鍋に入れてもろて持って帰って来よった。相当延びたうどんやったけど、こっちは熱が出て食欲がないからそれでちょうどよかった(笑)。大体、体の具合が悪くなったとか、お客さんが来たとかいう時に鍋で買いに行きよったな。けど、そこも戦争中はやってなかった。戦争中はこの辺は皆目店がなかったわ。あとは乾麺な。
- さっきの小麦と交換で製麺屋からもらってきた乾麺は、普通に家で茹でて食べてたんですか?
- 乾麺はな、普通に茹でて食べたり、茹でて味噌汁に入れたりして食べた。戦時中は雑炊に入れて食べよったな。雑炊を作る時に、分量を増やすために乾麺をパリパリと小さく割って入れて食べよった。
- 戦後になって、何か変わってきたことはありますか?
- 松崎でもちょっとずつうどん屋と製麺屋ができてきたかなあ。食堂でうどんを出す店なら駅前の「鈴木」が戦後に一番最初にできて、それから松崎小学校のそばに「長江」の製麺屋ができて、「道久」も戦後にできたはずや。鈴木は最初、的場の製麺屋から玉を仕入れよった。せいろで卸しに来よったわ。鈴木は、店でうどんが出て玉がなくなりかけたら、その都度的場の製麺屋に言うて玉を持ってきてもらいよった。
- 食料品店で茹でうどんの玉売りなんかはしてなかったんですか?
- 売ってない売ってない。今みたいに店に冷蔵庫や真空パックみたいなのがないきに、売れ残ったらアウトやから、よろず屋みたいな店では売ってなかった。
- あと、うどんの添え物の天ぷらというか、揚げ物はあったんですか?
- 揚げ物は、乳母車みたいなんに揚げ物をようけ積んで売りに来よったおばあさんがおったな。この辺にはおコノはんいうおばあさんが来よった。
- 行商ですか。
- ここらの田舎の年寄りはわざわざ店に買い物に行く習慣がないから、豆腐もアゲも揚げ物も魚も、行商で売りに来よった。
- 揚げ物のコロモに色がついてたという話を聞くんですけど。
- ついとったで。黄色と赤と青の揚げ物があった。黄色はたいていサツマイモや。レンコンも黄色やったかな。青はゴボウやったと思う。色粉で色をつけてある。
- 何で色をつけてたんですか?
- あの頃の揚げ物は衣が分厚かったんや。ほんで売りに来るのが婆さんやきん、色をつけとらんかったら自分で何の揚げ物かわからんようになるんやがな。
- そんな理由!(笑)
- 家で揚げ物作る時も、八百屋で色粉を買うてきて色をつけて作りよったで。祭りやいうたら賑やかにせないかんきに。祭りや何かの行事の時には親戚が寄ってくるきに、色のついた揚げ物をようけ作って、いかき(竹で編んだザル)に入れて吊ってあった。ほんで「うちでおごっつぉ(ごちそう)するきん」言うて、家で作った甘酒持って親戚を回って祭りの案内に行くんや。
- へえ~。
- うちにも毎年よそから案内が来よったんやけど、たいていうちは姉さんらが行って、年の離れた末っ子の私はひとつも行かしてくれなんだ。そのうち戦争になって祭りもなくなってしもた。私はな、悲しい子供時代やったんや。
- そんな、祭りに呼ばれんかったぐらいで(笑)。