盆前や正月前には、農協が麺を打って販売していた
- 子どもの頃(昭和30年頃)にうどんを食べていましたか?
- 今みたいに、しょっちゅうは食べてなかったな。普段の昼御飯で食べるようなことはなかった。昔はうどんがご馳走やったから。食べられる時分になると「久しぶりにありつけるでぇ」とかって、みんなよう言いよった。
- 食べられる時分というのは?
- 盆や正月やなぁ。県外に出ている家族が家に帰ってくる時や。周りはどこもそうやったよ。
- 麺はどうしていましたか?
- 農協で生麺を買(こ)うとった。盆や正月の前になると有線(放送)で販売の案内があったんよ。それに申し込んどった。その時分になると農協が麺をこさえとった(作っていた)で。ほいで、でき上がったら農協に取りに行くんや。この辺りは六万寺の農協やった。どれくらい買うとったやろかいな。何キロかやったと思うけど、一貫目、二貫目ゆう単位で買うとった時もあったで。
生麺をおくどさんで湯がいて、井戸の水でピシッと締める
- 買った麺をどのようにして食べていましたか?
- 主にはかけうどんやな。醤油をかけたり、ダシにつけたりして食べたことはあんまりなかった。麺は大きな釜で湯がいとった(茹でていた)。釜のことを昔は「おくどさん」って言うとったけど。ほいで、湯がいた麺を井戸の水で洗うて締めて、お椀に一つずつ入れて、木の諸蓋(もろぶた)に並べとった。
- その麺の値段はおいくらでしたか?
- 値段なぁ。う~ん。(昭和30年頃)一玉10円やったんとちゃうかなぁ。昔は何でも10円が基準になっとったからなぁ。10円で安定していた時代が何十年か続いたし。
八栗寺の境内周辺に、うどんを食べられる食堂が8軒も!
- 当時、周辺にうどん店はありましたか?
- 八栗寺の参道沿いで生まれてずっとそこで育ったけど、昔(昭和30年頃)はこの辺にうどん屋なんてなかったで。うどん屋じゃなくて、うどんが食べられる店(食堂)は八栗山(の中腹にある八栗寺の境内周辺)にあった。今は1軒だけしかないけど、当時は8軒もあった。
- あんな狭いエリアに食堂が8軒も!?
- そうや。間違いなくあった。ほいで餅屋も参道沿いにぎょうさん(たくさん)あった。ロープウェイの(登山口)駅から上が7軒。下には5軒あった。嘘やないで。餅屋も今は、うち1軒だけになってしもうたけど。
- 繁盛していたんですか?
-
そりゃ、凄い賑わいやったで! 八栗ケーブルができて今年(2015年)で50年になるけど、50年くらい前(昭和40年頃)は日曜に八栗寺への参拝客を乗せた観光バスが50台、60台ゆうて、ケーブル登山口駅の駐車場に来とった。
うちらの餅もよう売れた。一日じゅう餅をつき通したことも珍しくなかったで。やけど、ケーブルができる前の方がもっと凄かったらしい。お参りする人はみんな参道を通るからな。
正月に麺を700玉ほど仕入れることも珍しくなかった
- 八栗山の食堂も?
- もちろんや。凄い流行っとった。特にお正月は。初詣で八栗寺に参ったら食堂でうどんを食べるのが当たり前やった。みんなそうしてた。もう恒例行事や。その時は、どこの店もうどんの玉を1日に500玉、700玉って仕入れとったで!
- 700玉ですか!?
- そうや。多い時は1日でそれくらい売れとった。「屋島麺業」ゆう店が昔あってな。そこがうどんの麺を作って、八栗山にある各店へ持って上がっとった。あとも一つ、「としま」ゆう製麺屋も卸しとった。
- 食堂のうどんは?
- だいたいどの店も、かけうどんだけやった。一杯が20円やったように思う。他のメニューは寿司(ばら寿司、巻き寿司)とおでんくらいなもん。時たま、コノシロを酢漬けにして酢飯の上にのせたもんも出とったかな。
- 八栗山の食堂は次第に減少に?
- そうやな。参拝客もだんだんと減っていったし。周りにうどん屋もできていったしな。参道沿いにも1980年頃に大きなうどん屋ができた。そこがメチャクチャ当たってな。それから一気に店が減ったな。うちの店もいつまで続くことか(笑)。