ダムに沈んだ内場にあった、うどん作りに不可欠の車屋
うどんの昔話といえば、個人的にはその大半がダムの建設で水没してしまった部落での出来事になる。
出生時から昭和22年まで、現在は塩江の内場ダムの湖底になっている内場(塩江町上西)という場所で過ごした。1952(昭和27)年にダムが誕生する内場だが、それまでは塩江の上西地区で最も賑やかだったところである。今では想像がつかないだろうが、役場や警察署、学校、農協といった村の主要な施設が一通り揃っていた。
生活しているほとんどの家が農家だったからか、内場には当時のうどん作りに欠かせなかった「藤本」と「藤沢」という名前の車屋も二軒あった。車屋とは、製粉・精米を生業にしていた川のそばに建つ水車小屋のことである。川の水流で回る水車の中心には、挽き臼や突き臼を動かす軸が取り付けられており、〝カタンカタン〟という音をいつも気持ちよく響かせていた。
小麦粉との交換率は6割5分
農家だった我が家も小麦を作っていたが、収穫後そのままで保存しておくとネズミの被害に遭うことが多かったため、車屋でよく小麦粉に交換してもらった。
交換率は小麦全体の6割5分。残りの3割5分は車屋の取り分となる。3割5分と言うと、かなり割のいい数字のように感じられるかも知れないが、実はそれほどでもない。
小麦の中には牛の飼料にしか使えないような悪い状態のものもある。また製粉すると、皮や水分が落ちてしまう。何より、車屋には状態に応じた3種類の小麦粉が用意されていたが、いつも一番いいものを持って帰ることができたからだ。
小麦粉を現金で購入することも可能だったが、大半が農家だった内場では珍しいケースであっただろう。
耳たぶほどの柔らかさになるまで。踏んで、踏んで、また踏んで
その車屋の小麦粉で、よくうどんを作った。節目の日も普段も。
正月や神社の祭り、半夏生、法事、春と秋に行われた田んぼを祀る〝地鎮祭〟などの時に作った麺は、随分と本格的だった。小麦粉と水を決められた分量で溶き合わせ、季節によって増減を調整した塩を加えて捏ねる。小麦粉に水がまんべんなく行き渡れば風呂敷を二枚重ね、足袋を履いての足踏み。途中、生地を周りから真ん中に寄せて表裏をひっくり返す作業を何回か繰り返すと、一玉300グラムずつ切り、個別に足踏みを行う。そして、それぞれを再び合わせてさらに足踏みした後、また一玉300グラムずつに切る。最後、各玉に仕上げの足踏みをしてようやく生地が完成という、かなり手間暇を掛けたものであった。
「生地は耳たぶくらいの柔らかさになるように」と父や母から教えられ、自らも幾度となく作った。
うどん作りに相応しい道具が揃っていた
うどん作りに必要な道具は家にすべて揃ってあった。麺棒や麺を打つ台をはじめ、生地を練る際に使うボウル型の大きな木の器。人差し指を柄に引っかけることができる安定感のある包丁。生地を切る時に包丁に添えて使う「あてこ」と呼ばれていた蒲鉾型の板もあった。
野菜を切る時にも同じ包丁が使われていたので、いずれの道具もうどん専用ではなかったかも知れないが、うどん作りに適したものであったことは間違いない。
麺をかまどで湯がく時も、味噌作りで使う大鍋を用いた。直径が1メートル近くある、二人がかりで両端に手を掛けて運ぶほどの立派なものだった。
余談だが、当時の内場ではうどんと同様に味噌作りも各家々で行われていた。味噌は一度に大量に作るうえ、原料になる大豆は水を入れると膨れあがり、炊き上げるとさらに嵩張る。そのために大鍋を必要とした。
谷から引いた水で、湯がいた麺をビシッと!
うどんの美味しさを左右する水にも恵まれた。内場では谷水が豊富に流れ、どの家でも竹をパイプのように繋いで近くの谷から水を引き入れていた。その水を使って小麦粉を練り、湯がいた麺を捌いたのである。
うどんと谷水で、一つ忘れられない想い出がある。法事か何かで家に大勢の人が集まった。いつものようにうどんを用意することになったが、その日は大量に麺を湯がいたために、男たち数人が谷へ直接、麺を捌きに行った。しばらくすると、もろ蓋を持って男たちが満足そうに帰って来る。もろ蓋の中には艶々の麺が綺麗に並べられていたが、どう見ても湯がいた量より少なくなっていた。その不思議を尋ねると、男たちが笑顔で返したのだった。
「谷水だけで、一餅(ひともち)食うてしもうたが」。
一餅とは、足踏みした生地を小分けにした300グラムの玉のことだ。ひとかたまりで8つほど麺がとれる。男たちは谷の水で麺を捌いているうちに空腹に絶えかね、その場で麺を啜ってしまい、気がつけば一餅なくなってしまったと言うのだ。のどかな田舎話だが、谷の水で捌いた麺の旨さを表すくだりでもある。
鍛え上げた麺は、かけやつけ、醤油で味わった。ばら寿司と一緒に、節目の日だけ口にすることができた何よりのごちそうだった。
ご飯の代わりに食べていた、普段の日の打ち込みうどん
普段の日も打ち込み汁にうどんを入れてよく食べたが、内容はまるで違った。無論、ごちそうではない。
内場では、どの家でも打ち込み汁をよく作った。我が家でも週に2、3度は打ち込み汁が食卓に並んでいただろう。適当な野菜とうどん、味噌を鍋に入れ、火に掛けるだけで簡単に出来上がり、しかもそれだけでおかずとご飯の代わりになる。貧しく時間のない田舎の農家にはピッタリの料理だ。
当然、麺は手間暇を掛けていたものではなく、小麦粉に塩を適当に振り、水を入れて練っただけ。足踏みは一切、行わない。生地を切ればそのまま鍋に放り込み、谷水で捌くこともなかった。
作っていた小麦や蕎麦と交換して、ダシに使う煮干しを手に入れた
普段と節目では大きくうどんの内容が変わったが、ダシはどちらも煮干しのみ。煮干しは、徳島から訪れていた行商との物々交換で手に入れていた。
当時、内場には商店があったが、煮干しは置かれていなかった。煮干しは時間が経つと脂が回って変色し、状態が悪くなる。海から遠く離れ、現在のように交通が発達していなかったこともあり、保存の利かない食材を店で扱うことが難しかったのだ。そのせいか、当時の内場でうどんを食べさせてくれた店の記憶はない。
広い塩江の上西地区でうどんが食べられた店は、今も民宿を営む「もみじや」ぐらいではないだろうか。車屋はあちこちにあったのだが。
昭和22年、結婚したのを機に内場を離れ、「奥の湯温泉」がある辺りに移り住む。ほどなくして香川町で田んぼを買い、そこまで毎日自転車で通うことになる。その道中、「もみじや」には何度も立ち寄ったが、うどんを作る機会は徐々に減った。それはダムに沈んだ「藤本」と「藤沢」をはじめ、上西にあった車屋がなくなっていったことも大きな理由だろう。