家で作った小麦を「水車さん」で粉に挽いてもらって…
僕は昭和11年生まれだから、小さい頃は食料統制の時代でした。戦中は米もサツマイモも全部供出で、家に残るのはとても売れないようなイモの筋くらいでね。イモの葉っぱまで食べよりましたから、食べるものがあるだけでありがたいという時代でしたね。
それが少し落ち着いてくると、家でうどんを食べることも増えてきました。うちは農家でしたから、自分の家で小麦を作って、水車さんに製粉してもらいに行ってました。近くに上車(かみぐるま)、中車(なかぐるま)、それから今はダムができて沈んてしまいましたけど下車(しもぐるま)という水車さんがあって、僕がよく行かされてたのは上車です。水車さんはその時々によってどれだけの割合が粉になって返ってくるかが違っていたみたいで、親父はその都度「ここ」っていうところに小麦を預けていました。そこで通い帳をつけていただいて、必要ができたら粉を自転車で取りに行くんです。粉を取りに行くのはたいてい子供の仕事でした。
その粉で家でうどんを作るんですが、農家はたいてい家のじいちゃんかばあちゃんが自分で打ってましたから、「うどん玉を買って来て食べる」というのはうちでは全然なかったですね。自分ちで作った粉で自分ちで打った方が、安くておいしくできますから。
うちではたいていいつも少し多めにうどんを打っていて、それを2日も3日も食べたりしてましたね。毎回同じ食べ方も飽きるんで、おつゆに入れたり湯だめにしたり、酢醤油で食べたりもしてましたよ。でも、昔は今みたいに冷蔵庫のような貯蔵設備がないから、日を追うごとに麺がヘタってきてね。最後の方はうどんが糊みたいな感じになってたこともありました(笑)。今考えると、湯だめや酢醤油で食べたいうのは、熱や酢で消毒するような意味があったのかもしれませんね(笑)。
打ち込みはごちそうだったけど、ドジョウ汁は泥臭くて苦手だった
うどんを里芋やお揚げと一緒に味噌仕立てで煮込んで食べることもありました。今で言う「打ち込みうどん」ですね。打ち込みは、自分ちの野菜が採れる季節のちょっと贅沢な食事だったと思います。うちで打つのはちょっと太目のうどんだったんですけど、その中にもっと太い幅広のフチ(生地の端の太い部分)があって、打ち込みを食べててフチが当たったら子供らは「うわー、もうけた!」いうて大喜びしてましたね。あと、生地を麺の形に切らずにちぎって、それを手で握って指の形が残るような団子を作って入れて団子汁にすることもありました。
たまにドジョウ汁もやりましたね。親父が「今日暑いからドジョウ汁やるぞ」とか「今日は寒いからどドジョウ汁やるぞ」とか言うて、夏でも冬でもやりました。でも、僕は子供の時はドジョウ汁が嫌いでしたね。田んぼのそばの用水路でドジョウを獲ってくるんですけど、泥を吐かせるのに今ならお酒を使ったりしますけど、昔はお酒は高級品ですから水に入れておいて泥を吐かすだけで、だからどうしても泥臭いんです。
それに、ドジョウは煮込んでもエラが固くてイヤだった。親父はうまそうにして食べよったけど、僕はイヤだった。妹もドジョウは嫌いで、いつもごまかしてドジョウを僕の茶碗にこっそり入れてました(笑)。でも、食べなかったら親父に叱られよったですね。食べ物がない時代でしたから「贅沢言うな」と。当時は打ち込みもドジョウ汁もごちそうでしたからね。
法事にはうどん、大晦日はそばとうどん
法事にもうどんが出てました。うちは東本願寺(真宗大谷派)ですが、法事に行くと最初にうどんが出てきますね。それからお勤めやって、お昼のお膳が出て、午後のお勤めをやって、帰る時にうどんと、場合によってはちらし寿司もお土産に持って帰りました。法事をする側はみんな、自分とこでうどんを打ってました。法事の他にも、祝い事や祭りの時にはちらし寿司と一緒にうどんが出てましたね。
大晦日は、うどんとそばの両方を食べた記憶がありますね。このあたりのそばは大体が細い関東のそばじゃなくて、うどんかと思うぐらいぐらい太いそばです。まあ、そばを食べるのは大晦日か正月ぐらいでしたけどね。
牛市で馬喰さんにうどんを出していた
行事と言えば、滝宮は天満宮さんがありますから、昔はいろいろな市がたくさん立ってました。今は道が変わって場所の記憶は定かでないですけど、滝宮病院の駐車場になっているあたりで「牛市」があったと思います。そこに馬喰(ばくろう)さんも結構いらっしゃって、そういう牛市のような行事の時いうたら、うどんが必ず振る舞われましたね。うどんは手っ取り早くすぐ出せますからね。ネギが入っているだけのかけうどんですけど。
滝宮は昔は金毘羅街道の要所で、滝宮天満宮にお参りに来る人もたくさんいましたから、旅館も多かったですね。僕が成人した頃でも「敷島」「阿波屋」「田中屋」「三好屋」の4軒ありましたよ。そこは旅館やめた後も料理屋として残って、料理と一緒にうどんも出していました。「三好屋」さんはそこの農協のT字の角っこにありまして、食堂兼一杯飲み屋もやってましたから、かなり遅くまで営業してましたね。
うどん屋さんがあったのは、踏切から向こうと、滝宮天満宮の本町筋あたりです。私が知ってるうどん屋では、「小林」さんのところと「田井」さんと「長尾」さんというのがありました。
お見合いでうどんをお代わりしたら「OK」の意味?!
親父に聞いて一番おもしろかったのは、見合いの時に男性側はうどんをお代わりしたら「OK」の意味になるという話。昔の綾南町史にもそんなことを書いてた。お見合いにうどんが出てたというのも時代だし、それがOKのサインになるというのもおもしろかったですね。
まあ、そういう意味では昔はちゃんとしたうどんはお米ほどではないにしろ、ごちそうだったんですね。何しろ、丸いままの裸麦を7~8割、米が2~3割ぐらいで炊いて食べていた時代ですから。裸麦も押し麦にして食べるのは「ゲンシャ(お金持ち)や」言うたりしよりましたから。
「おやき」と「はげ団子」は大好き、「ぬかパン」は大嫌い(笑)
それにしても、昔の貧しい頃は今では食べんようなものをいろいろ食べてましたね。高松にいた親戚の若奥さんが滝宮まで野菜とか小麦とか米とかを買いに出て来られた時に、手土産に「ぬかパン」いうのを作って持って来てくれよりました。材料は小麦粉がちょっと入ってたと思いますが、ほとんどが米のぬかで、味付けは塩だけ。それを焼いたり蒸したりして饅頭とかパンみたいにして手作りしたものなんですけど、食べたら米のぬかそのものですよ(笑)。うちの親父なんかは「せっかく持って来ていただいたんだから食べなさい」って言うんだけれども、ほんっとに食べられんですよ、ヌカパンは。町の人はそのまま食べるんではなくて副食として食べていたみたいでしたけど、僕はそのままガブリでしたから、そりゃひどいもんだったですよ(笑)。あれはとにかく印象に残ってますね。
あと、小麦を使ったものでは「おやき」をしておりました。重曹は割合手に入りやすかったんですかね。特にふくらし粉。小さい時に、ふくらし粉入れたら膨らむので「たくさん入れたら2倍にも3倍にも大きくなるだろう」と思って、おふくろが留守の間に弟と二人でふくらし粉を大量に入れて作ったら、もう苦くて食べられなくて(笑)。で、後でおふくろにごっつ叱られた記憶がありますね。でも、「おやき」はおやつとしてはおいしかったですね。薄味で醤油を塗ったりしてね。
おいしかったのは「おやき」と、「落とし汁」ですかね。味噌仕立ての汁を煮てるところに練った小麦粉の塊をポンと落とす、団子汁ですね。あと、半夏の「はげ団子(あんこをまぶした団子)」は子供はみんな大好きだったですね。
正月にはあん餅雑煮もありましたよ。ただし、砂糖が貴重品だったからか、塩餡の餅が普通でした。
ナマズもモガニも獲って食べていた
川の魚やカニも自分で獲って食べていましたよ。ドジョウはよく獲っていましたが、ナマズも捕まえて食べていました。今は食べろと言われてもよう食べんかもしれんけど、当時は結構美味しかった記憶があります。
あとはカニ。モガニですね。台風の後とかに橋の下に網を張っていっぱい捕まえて、親父たちがそれを焼いて食べながら焼酎を飲んで夜を明かしてました(笑)。モガニは食べるとこがちょっとしかないんですけど、僕もそのおこぼれに預かって食べたら、あれはなかなかおいしかったですね。
でも、同じ綾川の流域でも滝宮と坂出の食生活は全然違っていましたね。坂出は街ですからお金が動いてるじゃないですか。ここらは当時は米と麦しか収入がなかったですから、ほとんど自給自足の世界です。買い物いうたら小麦粉だけじゃなくて普段買うものでも「通い帳」を持って行って、ツケにしてもらって盆と暮に精算するという日常でしたから。まあ、今になったら懐かしい思い出ですね。
うどん作り文化の継承
今、2年に1回くらい、丸亀の本願寺塩屋別院に行事でうどんを打ちに行ってるんですよ。昔のお寺には寺男みたいな方がいらっしゃって、その人がお盆や正月やお彼岸やお寺の行事の時にうどんとかそばを打って檀家の人やいろいろ寄進してくれた人たちを接待していたんですが、近年はなかなか人が雇えないし、近所の人に頼もうと思ってもうどんやそばを打てる人がいなくなったから、僕が行って打ってるんです。
接待だけでなくて、お寺さんに「副住職や子供や孫に打たせたいのでうどん教室をやってください」と頼まれて教えに行ったり、近所の子供や若者にうどん打ちを教えることもあります。つい最近も、綾川のお寺から「代替わりするのでうどんを打って接待して欲しい」というお話がありました。お寺さんも「少しでも若い人に来ていただきたい」と考えるところが増えていますし、「法事のうどん」や「お寺のお接待のうどん」という文化の継承という意味でも、元気なうちは続けたいと思っています。
そう言えば、以前、「こんぴらうどん」の成本さんと「香川うどん」と「水車うどん」の谷さんが、農経高校の寮の行事として毎年生徒にうどん打ちを教えてくれよったんですよ。いずれも先代の名人ばかり3人です。
農経高校は農場を持っていて、そこで小麦を作って谷さんのところに頼んで挽いてもらって、それを寮の給食に使ってたんです。その縁もあって、3人の名人がうどん打ちだけでなく、お好み焼きや天ぷらといった小麦粉を使った“コナモン料理”も上手に教えてくれて、毎年子供たちに大評判でした。その頃、僕も農経高校に勤めていて、学校の厨房を見た名人に「鍋とコンロの高さが合うてない。こんなんで商売しよったら潰れてしまう」って叱られたり笑われたりした記憶があります(笑)。
そういう活動の継承というわけではないんですが、綾川町うどん研究会も設立以来30年にわたって児童館で子供に教えたり公民館でうどん作り教室をやったり、いろんなところでうどん作りを教えています。今度、姉妹都市縁組みしている北海道の秩父別(ちっぷべつ)町の子供たちを招聘してうどん打ちを教えますが、そういう活動が綾川町うどん研究会の本来の目的ですので、何かの折にはぜひ応援いただければと思います。
●編集部より…讃岐うどん文化を継承する「綾川町うどん研究会」は、その活動自体が「讃岐うどん未来遺産」だと言っても過言ではありません。こんな短いインタビューではとても語り尽くせないエピソードがたくさんおありだと思いますが、そのあたりは研究会のいろんなレポートにお任せすることにして、とりあえず、「お見合いの時に男性側はうどんをお代わりしたらOKの意味になる」という話は改めてここに残させていただきましょう(笑)。女性側からのサインが話として伝わってきていないのは、男性が主導権を握っていた時代だったからなのか…今なら女性側からYES、NOのサインを出して、男はそれを固唾を呑んで待っているだけ…みたいなことになるのでしょうか。女性側がうどんをダシまで飲み干したら「OK」、うどんを一筋だけ残したら「微妙に保留」、二筋以上残したら「アウト」とか(笑)。もう見合いの席にうどんが出る時代じゃないと思いますが、「見合いのうどん」、ジョークでも復活させますか?(笑)