玉売りの「荒井」と乾麺の「おおぎた」、年越しそばは「池田屋」で
- 生まれたのは坂出旧市内の内浜(うちはま)。9歳まで住んどったけど、昭和41年に町名改正して、もう町名すら残ってないわ。内浜は今、八幡町になるんかな? 埋め立てしたり団地ができたりしてどんどん変わっていったんやろな。ほなきん、区分も変わってしもたんよ。従来の町名が残っとるとこもあるけど、八幡町や当時はなかったん。
- 子供の頃(昭和30年代)は家でうどんを打っていましたか?
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打たなんだ。うち農家じゃないもん。内浜の「荒井」いう製麺所で買うてきたんを食べよった。そこは夫婦で仕込んでな、手で延ばして打って玉にするん。お椀を持って行ったら出来立ての玉を入れてくれて、それにお醤油をちょっとかけて、生醤油うどん言うん? それをそこで食べよる人もおった。醤油だけしか置いとらんの。お椀も置いとらん。自分の持って行って、入れてもろて食べる人もおった。
うちは玉で買いよった。家はほんまの近くやけん。家帰ってイリコのダシで食べるんや。1人1玉ずつやなくて、ようけ買いよったと思うで。人数よりよけ買いよったと思う。子供は1つやけど、大人は2つくらい食べよったんちゃうん。1玉何グラムくらいやろな? お椀にぽこーんと目分量で入れるんやけん。量らんの。今頃やったら袋はめたら量るやん。こう、うどん持ち上げてお椀に入れてカシャ、お椀に入れてカシャっと。重さ量らんとお椀に一杯。1玉なんぼやろか? パンが10円、アイスキャンディーが5円で、さとうきびは5円で2本くれよった頃や。
夏は乾麺やな。近くに「おおぎた」いう製麺所があったんや。おそうめんとかひやむぎ作っりょるとこ。そこは乾麺ばっかり。製麺所やけど乾麺ばっかり。んでな、この「おおぎた」と「荒井」はほんまに筋挟んですぐくらいの場所やったんで。夏はここのそうめんとひやむぎばっかり食べよったわ。
年越しのそばは、「荒井」はそばせんから、坂出の本町のな、「池田屋」いううどん屋に買いに行きよった。それも近くのうどん屋。国時の燃料店の前やきん、今はもうないわ。長いこと駐車場やったんを道にしよる、新しい坂出市立病院の前の道を太にしよるあの辺りや。そのそばもメリケン粉の量の多い切れないそば。ちょっと白っぽいそば。その頃はそれがそばやと思いよったけど、いやいやいや違うんやと大人になって思たな。
お客さんが来る時はうどんとお寿司を取っていた
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お父さんの善通寺の親戚とかはな、お客さんが来る言うたらうどんとお寿司取るんよ。うどんとお皿に盛ったちらし寿司がワンセットになっとんがもてなしやったみたい。内浜の近くの食堂から取っじょったと思うけど、店の名前はわからん、忘っせた。だって、私や食べたことないのん。お客さんしか食べれんの、高いから。ごっそう(ごちそう)やと思たな。また匂いがええんや。なんとも違うんや、自分とこの匂いと。ピンクのかまぼことネギとしか乗っとらんのやけど、なんせこう、澄んだおつゆで、色が白いんやな。自分とこや薄口醤油や使てなかったかもわからんな。「あ~、これが正式のうどんや」と思いよったけど、食べとらんの。匂いだけ。味わからん。食べてみたかったな。どんな味がすんやろかと思て。だって、おいしそうなんで。器も違うやん。ま~ほんでもな、もののなかった時代やから、あれが子供ながらにごちそうやと思たな。
ちょっと大きなって小学校3、4年生の頃に、従妹と2人で林田町の東梶(ひがしかん)までバスに乗って「叔母さんとこ遊びに行く」言うて行たことあるわ。キャラメルやらようけ遠足みたいに買うて持って行って。林田に従妹がまた1人おるんや、同じくらいの歳のんが。その子にお菓子半分あげたりして。遊びに行きよった。ほんなら叔母さんが「おうどんと寿司取ってやるわ~」言うて取ってくれよった。子供が行っても取ってくれた。そこで取ってもろたうどんと寿司食べたことある。ああ、ここもいっしょのことするんや思いよった。歓迎や。これがごちそうで。どこのうどんやろな。林田の食堂みたいなんがあるんやろな。岡持ちに入れて来るん。あ~これがそうなんやて。おいしかったんやろな。自分とこのとは違うかったんやろな。おつゆが違うわな。
おうどんは常にでも食べる。お客さんの接待にも使う。行ったときにでも取ってくれる。そういうなんかあったら食べるんやな。
新浜の旧家の法事のうどん
- 法事の時はうどんを食べましたか?
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実家の法事はおじゅっさん(お住職さん)と家族だけや。うどんはせんわ。人手もないし。本家がそういうのするんよ、跡取った本家が。おうどんが出る法事に行ったんは、母親の実家。母親のお父さんの出里。そこが新浜で浜(塩田)しよって土地よおけ持っとんや。そこに法事で「みんな来い、みんな来い」言うてくれるけん、私たち子供も行ったことあるんや。
うちみたいに一向やったらな、お経読んみょる間で「ほな、ちょっとお休みさせていただきます」言うて、おじゅっさんの休憩があるんよ。普通の命日ではそれが短いんやけど、何回忌みたいに大きな法事になったらその休憩でおうどんが出よった。子供も食べさせてくれる。それはもう簡単なうどんや。ちょっとかまぼこ入っとるだけや。上具は簡単なもんやわな。でもダシはしっかりと煮干しで取ってな。
その新浜の家はものすごく間口も広いというか、旧家なんや。ほんでお金もようけ持っとって人の付き合いも多いきん、お手伝いの同業の人でもよおけおるん。うどん何十人分出す言うても人手がいっぱいあったんや。ほんで「お前んとこは子供がおるんやきん」言うて、もうよお~けおまんじゅうやらお菓子もろて帰っじょった。あそこ行くん、よいよ好いとった。
兄嫁さんの実家は農家やけん、「法事の時はうどんをセイロで注文しよった」ってよう言よったけど、嫁いで来て出したことはなかったわ。私の嫁ぎ先もうどんは出さん。もうお茶になってきとんや。ほなけど、お茶代わりまで言わんけど、うどんの出すタイミングがおやつ時でもあり、小腹が空いた時でもあり、お昼の主食になったり、ほれからお茶請けみたいなことはないけどそんなんに出したり。3時頃でもお客さん来たらうどん屋さんから取っじょったけんな。そういう感覚で使いよったいうことやわ、昔は。うどんは何にでもついて出るな。選挙事務所に応援行ってもうどんとばら寿司が出よったで。酒やって出るんやけど、今は出したらいかんのやろ?
昭和40年代に坂出に初のセルフの店ができた
- 学校の給食でうどんは出ましたか?
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小学校の給食ではうどん出たかな? うどん出てもええような気がするけど…あったわ! 給食でうどん食べよる時、後ろの子が失神して真っ青になって私の方に倒れてきたんや。口にうどんとすまきくわえて! びっくりしたわ~! というか、何という思い出し方や(笑)。
中学、高校は弁当やな。買い食いでうどん食べるやいうんはなかったわ。でもその頃かもう少ししてからかな、「四国うどん」とかいう店でセルフサービスが始まったんや。チェ―ン店で、善通寺でも見たことあるわ。それが坂出の高架の下の、今、中島皮膚科があるようなとこ(文京町)、あの辺りにできて。珍しかったけん行ったことあるわ。坂出では初めてのセルフやと思うで。あの頃にセルフがどんどん出だしたもんな。どんぶりにうどん玉入れてくれて、「そこで温めて」言われて、テボがついとって自分の温め加減で湯の中で温めて、蛇口からおつゆが出るやつでダシ入れて、ネギ入れて、天かす入れて食べるいうやつ。
それからやわ。うどんやうどんや言い出したんわ。でも、私たちの感覚ではうどんはそんなに食べ漁るもんではないやん。常にあるやん。私が50代の頃(2000年頃)やわな、「讃岐うどん88カ所」や言うて。仕事場の人で徳島からお嫁に来た人が珍しいんで、ものすご興味があってな、「いっしょに行こ」言うて。それで中村や宮武、それから釜玉の山越やいろいろと。お昼早く終わった時なんかは行きよったな。行ける時は一日2軒から3軒まわっじょった。徳島の子が運転するん。「探しながら行くん楽しいんや」いうて。