昭和40年代の田町の食堂
- 僕は昭和34年に三本松で生まれて、4歳の時(昭和38年)に親が今の場所(高松市田町)で寿司屋を始めたのでこっちに移って来ました。当時はお店が猛烈に忙しくて、一日に何回もお寿司のご飯を炊かないかんくらいだったので、家に寿司飯はあるけど白飯がなくて、小学生の頃は朝ご飯を食べるのに隣の「すし久食堂」さんの裏から入って「おばちゃん、ご飯ちょうだい」って(笑)。「すし久」さんは寿司屋というより食堂の類だったので、そこの白ご飯をよく食べさせてもらってたんです。
- じゃあ、家でうどんはあまり食べてなかった?
- いや、家でうどんをすることはありましたけど、親父がいつも「家で作るうどんはまずう作れ」って言いよったのだけしか覚えてない。おいしくないように作れと。意味は定かではないけれども、とにかく親父が「家で作るうどんはまずう作れ」言うてたんは、家の者はみんな知っとったと思う。ただ、うちのオヤジのいうことは眉唾もんのこともあるんで、ホントかどうかはわからんけれども(笑)、そういうこと言いよりました。
- 謎の言い伝えですね(笑)。で、その「すし久食堂」にはうどんもありましたか?
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よく覚えてはないですけど、あったんじゃないですかね。当時の「すし久」さんは客席のテーブルのほとんどがお好み焼きが焼ける鉄板のテーブルで、すごく流行っていたと思います。出前も結構されてましたし。
あと、食堂の類では、田町の交番のちょっと奥にある「松屋食堂」さんにもうどんがあったと思います。「松屋食堂」さんの隣は映画館の東宝とスカラ座で、田舎の人がコトデンの瓦町の駅で降りて映画見に来たら、「松屋食堂」によく行ってたんじゃないですかね。あとは、今のソレイユビルがあるところの裏手に「常磐温泉」っていう大きな風呂屋がありましたが、あの周りにもお好み焼き屋さんとかの飲食のお店が何軒かあって、たいがいはうどん置いてたような気はしますね。
トキワ街の「常磐食堂」にもうどんがありました。あそこはそれこそ昔の食堂で、うどんからお寿司からカレーから全部ありましたね。カレーもあるし、焼き飯もある。普通の食堂で、よく食べに行ったんです。表に「常磐太郎」っていうくいだおれ人形みたいなのがあって。
あと、トキワ街の入り口のところに「三笠レストラン」というレストランがあって、そこに「日本一の出前持ち」と言われてた有名な大将がおった。普通の自転車でこんなでっかい出前の入れ物を持って走って行くんですけど、子供心に「落とさんやろか」と思って(笑)。「日本一の出前持ち大将」はテレビにも2~3回出たと思いますよ。あと、お好み焼きの「味楽(みらく)」の大将もその頃、「皿回し」でしょっちゅうテレビに出てた。「味楽」さんには当時から芸能人の色紙がずらーっと何百枚もありましたよ。
でも、僕はあんまり外の店でうどんを食べた記憶はないですね。その頃はうどんの玉を買ってきて自分ちでダシ作って食べるいうのが多かったから、あんまり外で食べんかったんやないですか? この辺は特にそうやと思う。製麺所がここから歩いて何分かのところに一軒二軒はあったと思います。うちの店の前の通りを東に行ってフェリー通りを渡ったところにビルがあって、その裏手にもちっちゃい製麺所があったような気がします。
森進一がうどん屋に逃げ込んだ(笑)
- 他に、小学生の頃(昭和40年代)のうどんの記憶がありましたらお聞かせください。
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えーとね、たぶん小学校4年ぐらいの時(昭和44年頃)やったと思うんやけど、デビューして人気急上昇中の森進一がレコード屋回りで高松の南新町にあったタマルレコードに来たんですよ。そしたらものすごい数の女の人がタマルに集まって、森進一が店にとても行ける状態でなくなって。今、南新町にの餃子の王将があるでしょ。あそこが確かうどん屋やったと思うんやけど、そこのうどん屋に森進一が逃げ込んだのを見た。僕は当時子供やったけど、「うわ! スゲエ!」って思ったのを覚えとる。
うどんの店で印象にあるのは「かな泉」さんと「アズマヤ」さんかなあ。鍛冶屋町の高松市美術館の西側のところに「かな泉」のちっちゃいうどん屋さんがあったんですね。店内に弘法大師がなんとかかんとかみたいな「うどんの歴史」みたいなんを大きく貼ってあったのを覚えてる。それと、「アズマヤ」の喫茶にうどんがあったのも有名な話で。僕は四番町小学校だったんですけど、四番丁小学校の子供は制服制帽でランドセル背負うとっても「かな泉」のうどん屋と「アズマヤ」の喫茶店には出入りしてもいいみたいな暗黙の了解がありました(笑)。規則でOKだったのかどうかはわからんのやけど、確かに僕らは行っきょった記憶がある。
今はもうやめとるけど、田町の「丸川製麺所」が後の飲食店の形じゃなくてほんとの製麺所の状態でありましたね。店の中は小麦粉で真っ白で、そこへうどん玉を買いに行くと丸椅子が二つ三つ置いてあって、ヤカンの中にお出汁が入れてあって、タクシーの運転手さんとかがちょっと昼飯で座り込んで食べよったんを覚えとる。ああいう製麺所のうどん玉は、近所の八百屋でごく普通に売ってましたね。僕の同級生とかでも「うどん玉は近所の八百屋で買いよった」って言いよりました。ビニール袋に2つ3つ買うて帰るか、家族が多いとこは「ひとセイロちょうだい」言うて20玉入ったせいろごと買って帰っりょりました。
あとはそうですね、これも昭和40年代だったと思うけど、まだ中央公園が中央球場だった頃の高松まつりの協賛行事でうどんの早食い大会があったんです。で、うちの妹が「父ちゃんやったら行けるけん、出まい」言うて。それで親父が出場したら、10玉の早食い部門でいきなり優勝したというエピソードがあります(笑)。
そういや、今の香川銀行の南新町店(出張所)があるところ、僕が小学校の頃はあそこが本店やったんやけど、あの前にものすごく大きなラーメンの屋台があった。幅が10メーター近くあったかな。10メーターは大げさかもしれんけど、子供の感覚ではそれぐらい大きい屋台があった。田町のこんぴらさんの中にも屋台があったな。
- うどんの屋台はありましたか?
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うどんの屋台は見たことも聞いたこともない。うどんは水をようけ使うからかな? 戦後の高松は香川用水ができるまで水の確保が難しかったから、うどんの屋台はあんまりなかったん違うんかなあ。水は飲食業にとって大きな問題やからね。
昭和48年でしたかね、高松砂漠の時は大変でした。中央通りの下に水道の本管が通ってて、本管を全部止めてしまうと今度開いた時に錆が出たりするんでちょっとは流すんですけど、とにかく水道はちょろちょろしか出んのです。それで、114銀行の本店の下に大きな地下水槽があって、そこへでかいポリバケツを自転車に積んで水をもらいに行った記憶があります。
けどあの時、実は田町のうちの店の近辺は水が出てたんです。「すし久食堂」さんも厨房の中に井戸があって水はあったんですけど、当時の商売としては「よそさまがみな24時間給水制限で使えよらんのに、うちだけ使うわけにはいかんやろ」いうて、みんな辛抱して使ってなかった。まあ、高松は水不足に悩まされ続けてましたんで、屋台なんかも水には苦労しただろうなあというイメージはありますね。
宮脇町の「きさらぎ」がうまかった
- その後、印象に残ってるうどん店はありますか?
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僕は東京の大学に行ってたから、帰省の時の連絡船のうどんは印象に残っとる。昭和50年代、大学を卒業してこっちに帰ってきてからは、石清尾八幡さんからちょっと東に出て北へ折れて香川大学に行く通りにあった「きさらぎ」がうまかったですね。普通の中年のおじさんが高下駄みたいなん履いてうどん出すだけみたいな小さい店で、ある人のお葬式に何人かで行った帰りに、その中の一人が「ここでうどん食うて行こう。ここうまいんや」いうて、真夏の暑い時だったんで冷やしうどんを食うたんです。「10分待つよー」って言われて。ちゃんと茹で立てが出てくるんですね。そこの冷やしうどんは麺もうまいけどダシもシャリシャリに凍ったようなダシで、思わず「おかわりー!」って。でも後で聞くと、「きさらぎ」さんの売りは鍋焼きうどんなんです。冬場にも味をしめて1~2回行ったんですが、入ってくる人、入ってくる人、おねえちゃんでもおばさんでもおっさんでも全員鍋焼きうどんを食べてたような印象がありますね。
それと、田町から八幡さんの方に行く道の左手にある「誠うどん」。あれ、僕の中学校の同級生がしよるんですけど、行ったら確かにうまい。いただきさんのおばちゃんでお昼いっぱいになるだけはある。うちの店に来てるお客さんに聞いてもみんな「うん。あそこのうどんはおいしいよ」と言います。ただ、頑固やし(笑)。で、僕なんか商売しよるから値段見るじゃないですか。そしたらなんか値段表の付け方がおかしくないか? なんで天ぷらうどんが400円で他のうどんがもっと高いんや?(笑)とかそういうのを思ったことはあるけれども、非常に丁寧な仕事をしてる。
それと、「谷川米穀店」もうまかったですね。「谷川米穀店」に初めて行った時は讃岐うどんブームの時だったんですが「それほど並んでまで食う必要ないだろう」と思ってたら、あれはおいしくてびっくりしましたね。
●編集部より…高松の中央商店街の南の方、田町周辺の昭和40年代の様子をいただきました。田町あたりでは「松屋食堂」が今も健在ですが、周りがどんどん新しく変わってしまった中、松屋食堂のほとんど変わらない“昭和ぶり”は、今や文化財級。「誠うどん」の“一徹ぶり”も貴重な讃岐うどん文化です。それにしても、二勝寿司の先代の迷言(?)、「家で作るうどんはまずう作れ」の謎は解けない(笑)。