昭和30年代の詫間は乾麺が多かったと思う
- お生まれは何年ですか?
- 昭和28年。戦争は終わってましたが、まだ貧しかったですよ。このあたり(詫間町詫間蟻ノ首)は農村で、私の家も農家でした。荘内半島の先の方に出れば漁業がほとんどやったけど、こっちの方では農業が多かった。
- 子供の頃、家でうどんは食べてましたか?
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生麺をゆでて食べるようなうどんはこの辺では食べなかったなあ。食べてたのは乾麺がほとんどやった。素麺かうどんの乾麺で、うどんの方が多かった。乾麺は近所の八百屋から買って来て、家に常備してた。豊浜(観音寺市豊浜町)の方においしい乾麺があってね、たぶんあのへんの乾麺がこの辺まで来てたと思うよ。この辺で乾麺作ってるところはなかったと思うから。
ダシはほとんどイリコダシで、うどんに入れるのはナルトとネギぐらい。ショウガは今は入れて食べるけど、子供の頃は入れてた記憶はないな。
うどん屋も製麺所もあるにはあった
- うどん屋さんとか製麺所はありましたか?
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製麺所はあったと思う。でも、私はほとんどそういうとこには行ってなかった。八百屋にはゆで麺は置いてあった。ゆで麺はどっちか言うたら乾麺よりぜいたくでした。
うどん屋は、今はないですけど当時は近所に「大和屋」っていううどん屋さんがありました。うどんと中華そばとお寿司。お寿司いうてもバラ寿司とお稲荷さんね。中華そばはうどんより値段が高くてぜいたく品。おでんはあったかなあ? ちょっと記憶にないなあ。
獅子舞の帰りにうどんをおごってもらった
- 他にうどんを外で食べた記憶は何かありますか?
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この辺で秋になると獅子舞があったんやけど、その時に獅子の練習に行った帰りに青年団が「うどんおごってやるわ」言うて、店でうどんを食べさせてもらった。たまにお金がある時は中華そばを奢ってもらったこともありましたね。
けど正直、あとはほとんど外食のうどんの記憶はないんよ。高瀬高校の前にうどん屋があったのは覚えてるけど、今みたいに「うどん屋、うどん屋」っていう時代じゃなかったしね。さっき言ったように、家で乾麺のうどんを大きな鍋で茹でて食べるのと、何か特別なことがあればおうどん屋さんでうどんかそばを食べようかっていうぐらいだった。
とにかく詫間ではあんまりうどんの記憶がない(笑)
- ご実家が農家だったということですが、小麦は作ってましたか?
- 米の裏作で大麦は作ってたと思うけど、小麦はたぶん作ってなかった。大きな川がないから小麦を挽く水車もこのあたりにはなかったし、だからこの辺はあんまりうどん文化がなかったんじゃないかな。
- 打ち込みうどんはやりましたか?
- 打ち込みうどんじゃなくて、だんご汁だった。
- ほんとにうどん文化じゃなかったみたいですね(笑)。あと、色付きの天ぷらはありましたか?
- うちではなかったけど、近所で天ぷらくれたりした時に色がついてるのはあったな。あれを見るたびに「何でこんな色つけるんやろ」と思ってた。あれは今でも不思議やな。
- 雑煮はあん入りですか?
- あん餅で白味噌。今食べると、すごく懐かしい味がする。あと、あん餅で塩あんのがあった。あんこが甘くない、塩っ辛いあんこ。あれがすっごい懐かしい。
- 冠婚葬祭にはうどんは出てましたか?
- 記憶にないな。真言宗だけど、うどんは出てなかったように思う。とにかく、あんまりうどんの記憶はないんですよ(笑)。それから僕が18で高校出て京都に行ってて、それから26年京都にいて帰ってきたんだけど、あっちにいる時に、たぶん平成に入ってから香川でうどんがどうのこうの言うのが聞こえてきて、「何でそんなうどんで騒いでるんやろ?」という感じやったから、作られたブームのような印象を持ってましたね。
●編集部より…「昭和30年代の詫間町には大したうどん文化がなかった」という話と、「乾麺が主流だった」という話は、以前に詫間町松崎の昭和8年生まれの女性からも証言がありましたが(vol:8参照)、それでもうどんを出す食堂と製麺屋さんの話はパラパラと出てきます。讃岐の「大したうどん文化がない」は、全国で言う「結構うどんだらけ」と同義です(笑)。