香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

仲多度郡多度津町・昭和3年生まれの男性の証言

大平正芳元総理の兄は乾麺を作っていた

(取材・文:

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  • vol: 287
  • 2018.12.27

多度津のうどんはうまかった

 やっぱ昔の多度津のはうどんはうまかったと思う。
最近はわりとどこでも美味しいうどんやさんありますけど、昔は地域差大きかったですか?
 昔の高松のうどんは口に合わなんだんや。でも、高松の林町や高松市南部の方いったらうまかった。
うどん屋さんは自家製麺が多かったですか?
 うどん屋がたくさんあっても、うどんを自分とこで打っちょるとこは少なかったんや。われわれ小さいころにうどん打っちょったいうたら「しまだ」のうどん屋。それとね、今の公園のトンネル抜けたところにある「平野屋」、あそこが本町の向こうの端でうどん屋やっじょった。
一方通行の起点あたりの合田邸のあるところですね。
 製麺して卸よったんは「しまだ」か「平野屋」くらい。やから多度津のうどん屋はだいたい麺は一緒やったはずなんや。ただ、ダシはそれぞれの家でイリコ炊いたんをトックリに入れて釜の湯の中につけての。常に湯煎しといて。
具材はカマボコとネギくらいでしたか?
 浅草海苔みたいなんが乗って、ゼニ出したら玉子焼きも乗せてくれるけん。
サイドメニューはありましたか?
 うどん屋は必ずばら寿司はあった。皿に盛り上げて。
おでんはありましたか?
 おでんは昔はなかった。
今のうどんとの違いってどのあたりになりますか?
 ダシはどこにいっても美味かった。うどんの麺は今のほうがずっと美味しいです。でも、この頃のうどん屋のダシいうたらどこ行ってもぜんぶいっしょな味やからどないなっとんかしゃん。このへんのうどん屋いうたらどこ行ってもダシはみんなおんなじ味や。
打ち込みうどんはこのあたりでは食べますか?
 打ち込みうどんは長尾のあたりやな。このへんでは聞かん。
このあたりは法事の時にうどんは出てましたか?
 うどんは出よった。うちの法事はぜんぶ湯だめや。宗派は真言。お経の合間でうどん食うたりしよった。

昔ながらのうどん屋が多度津には残っている

(古い住宅地図を見ながら)「たかや」さんの広告ありますね。
 「たかや」は古いよ。昔からひとっつも変わらんけんあそこは。「たかや」は昔は石川の米屋やけんな。米屋が「うどんがいける」ゆうんで、もと浜多度津駅の跡地の一部を土地交換みたいなんをして。やからうどん屋はあそこで始めたんが最初や。
「石川米穀店」広告だと精米所でうどんとそうめんを作ってたみたいですね。
 多度津でああいう方式のうどん屋を始めたんは「たかや」が一番古い。やからうどん食う言うたら必ずあそこいっきょったんや。石川は私と同級生の女性が今でもやっりょる。あそこはわが道いっとる。最初からビール置いてあるしな。最近は昼はそんなに混んでないけど、前は昼やいうたらそらもう一杯やったんや。座るとこのうてな。ああいうような形式のうどん屋いうんが多度津には一軒しかなかったんやけん。やからみんなそこ行く。うちの兄貴やでも東京から帰ってきたら、「おいうどん食うて行こうか」いうてあそこ行く。行ってビール飲んでおでんで酒のんで、それから一時間位で帰ってくる。「お前なんしょったんや」言うたら「たかや」やった。
じゃあ「たかや」以外は食堂タイプの店ばっかりだったんですね。
 ええ。
「たかや」ができる以前の昔ながらのうどん屋さんは今残ってますか?
 「水田食堂」があれはそのまま昔のうどん屋やな。あそこはうどん玉どっかから買うてきて出っしょる店や。あそこはもともとは旅館なんじゃ。二階が広い部屋があるんや。
昔の地図で水田食堂さんのところみてみたら、たしかに旅館ですね。
 そう。旅館や。あそこは長いですよ。旅館やらうどんやらお土産物やらやっとった。

多度津には旅館が多かった

「うどん旅館」というカテゴリができそうですね。他にも旅館をしてたうどん屋さんはありますか?
 多度津でも合田邸の隣の「平野屋」がうどん屋しよったけんな。今はうどん屋は移転してあそこの場所は閉めとるけど。わしが子供ん時はタコの茹でたんをおいといて、酒飲む人が「あれくれ」言うたら足一本切ってな。酒飲む人はそれで酒飲んで、「うどんくれー」って。うどんとか巻き寿司、バラ寿司をウインドーに飾ってある。店の中に座敷はなかった。多度津の東浜には旅館が9軒くらいあったはずや。金毘羅橋のそばが「阿波亀」「花菱」があって、「平野屋」があって、「えびすや」があって、「さんえいしゃ」、「さん港しゃ」、そらようけあったで。

日讃製粉は干しうどん

多度津にある製粉会社の「日産製粉」はうどんの卸はしてましたか?
 「日産製粉」は干しうどんやな。生うどんはなかった。うどんを茹でて売るようなことはしよらなんだ。「日産製粉」はできたんが昭和16年か17年頃や。ほいで、がいに儲けたんじゃろ。政府から食糧が来て、かける零コンマなんぼかはロスとして認めてくれる。やからあの頃はめちゃくちゃ儲けたはずや。
景山家は鉄道と電力で有名ですけど、製粉以外も戦後の食糧配給もあったんですね。
 あれは昭和16,7年からで。やりだしたんは。
はじめひと棟だけ建ててな。工場で女の人がな、乾麺を切って束にする。ほいでがいにいきだして、隣に三階建ての工場建てて二棟になったけど、今はもうなくなってしもとる。
なるほど、統制経済の中で配給される麺となると生麺ではなく乾麺になりますね。

大平さんの兄が乾麺を製造していた

 大平正芳さんとこやって、豊浜でそれやったんや。乾麺つくっりょった。大平数光(かずみつ)さんいうて正芳さんの兄貴がやっりょった。
へえー! それは初耳です!
 それがな、見た目がみすぼらしいんじゃ。端っこやって不揃いでぐじゃぐじゃや。
ほなけどな、豊浜から来よる奴に「数光さんとこのうどん買うてきてくれ」いうて買うてきてもろたら、うまいんじゃが。他で買うた乾麺は端はきれいに切って揃うとったけど、数光さんちのはぐちゃぐちゃやった。

セルフうどんは高松の中西が昭和20年台からやってた

高松のうどん屋に思い出はありますか?
 今のうどん屋がしてるようなセルフ式に最初にしたのが、高松の「中西うどん」。そこが今のセルフ式の発祥や。当時セルフ式はあそこしかなかった。
私が会社に勤めよった時は宿直やしたらな、誰かが「みんな、なんぼや、数言え」いうて玉数聞いてバイクでうどん買いにいっきょった。
中西は朝からやってますからね。
 いや、買いに行くんは晩じゃ。年中打っちょったけん。当時はできたてのうどんを買うてくるいうたら「中西」行くしかなかった。
とにかく高松では「中西」の他にはなかった。昭和24~5年頃に中西があったんや。もう古い話や。
丸亀のうどん屋には行かれましたか?
 丸亀のうどん屋やいうたら通町の「すみや」。あそこくらいしかなかったな。あそこはよう流行っとったけど、店がきったないんじゃ。そこの親父が競艇でつこうてしまうんじゃいう話を聞いたことがある。よう売れたら店きれいになろうわいと思うんやけど。我々が一杯飲んだらすみやでうどん食うて帰ろうかという店やった。ダシがええ。
「すみや」は夜もやってたんですね。
 やっとった。かなり遅くまで。商店街が10時くらいまでやっとったから。
「すみや」にお酒やおでんはありましたか?
 酒はない。うどんだけ。うどんだけで、ダシも麺もいける店やった。そのかわり店が汚い。あと、城の近くに「植野」のうどん屋があったわ。富屋町商店街を抜けて南に出るでしょ。ひとつめの角越えて、もうちょっといったら左脇に「植野」のうどん屋いうんがあった。今やっとったとしてもわしらが知っとるんの次の代やろうなあ。
たぶんそれは「つるや」ですかね。
 もしかしたらそれが「植野」かもしらんな。昭和20年代に嫁さんと若い衆でやっりょった。あのへんは兵舎がなくなった後やから店はじめたとしても戦後やな。我々が丸亀でおった頃というのは昭和30年頃やから。あんまりけっこな家ではなかったな。やから丸亀でうどんは「すみや」か「植野」やったんや。

多度津の上空を高松空襲に向かうB29が飛んでいった

 高松空襲の時はちょうど高松の親戚のとこ泊まろうかとおもてたけど帰って来たんや。泊まっとったらやられとる。その家は高松の一番丁やけん焼けてしもうてピアノやなんやが焼けたん残っとる。戻ってきたら多度津の上を一機づつぐわーっとB29が飛んでいって。それで多度津の工機部に高射機関砲据えとった。一台だけ。

 戦争中は統制がきいてたからまだ食糧手にはいっとったけど、戦後はそれがきかんようになったんや。
私も学校いっきょった時に、配給する食糧ををカロリーで計算しとるんで、砂糖ばっかりくれよった。カロリー高いけんて砂糖ばっかりで。あと、トウモロコシの粉。これは鶏の餌じゃ。これはうもうなかったで。

多度津に闇市はありましたか?
 この辺はなかったな。
高松桟橋の駅前にはあったな。どーっと下に敷いて。あと常磐街にもあったやろうね。常磐街は両脇とも田んぼやったですからな。

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