「観音寺のうどんは柳川さんじゃな」
観音寺のおうどんなあ。昭和の初め言うたら「柳川」さんくらいじゃな。一番古いんはな。昔はようけあったけど、「岩田」さんも閉めたしな。昔は方方にあったんや、私が子供の自分にはな。けどみんな一代でやめたけんな。続いてしよるとこいうたら「柳川」さんじゃな。
「紀州屋」さんはな、昔は製麺だけやなくてうどん屋もしよった。私食べに行っきょった。大正時代はおうどん屋やったわ。うどん屋しよったんが、今度は製麺が機械になってな、製麺もしだしてうどん屋はやめてな。「細川卯三郎商店」。場所は若松屋の裏の路地入ったところな。
昔は観音寺市のここら(中心部)にうどん屋がようけあったがな。こないだそこの郵便局の前にあったところもやめてな。もうみんなやめていっきょる。若い子がうどん屋せんから、とっしょりがしよったらみんなやめてな。
「てつや」はな古いがな。明治からしよってな。もうやめてから20年くらいやろうかな。おうどん屋でも、ちょっとした料理はしよったけんな。昔、畜産関係の人がおうどん屋でみんな飲んみよった。おうどんだけでいかんけん、お酒出したりな。ちょっとおつまみ出したりしてな。そういうようなんはどこのうどん屋でも昔はしよったわ。「てつや」のおばあちゃんは、「嫁に来た時は、昔は子を背負うてうどん踏んだがな」って。そういった話しよった。
「今日は切り込み隊ぞ」
家では皆、うどん打っちょったわな。田植えの時期が来たらな、田植え済んだらみんなうどん打って食べよった。7月の1日の半夏にうちの母やみんな打ってな、百姓でのうても食べよった。戦前はみんな自分ちで打っちょったわ。半夏のことは「たろつじたち」って言よったわな。どういう意味か知らんけど。
私? 私は打たんなあ。戦争中はうちの母が手打ちで打ち込みうどんを打ってな。太いおうどんでな、「今日は切り込み隊ぞ」言うてな。うどんを切り込んで放り込んみょったけんな。兵隊さんが切り込んで行っきょったやろ。その頃の娘は「切り込み隊」いうたら兵隊さんが切り込んで行くことやって思うたけん、「今日は切り込み隊ぞ」言うたら私は喜んで食べよった。
その頃は自分ちでする言うたら、ゆがかんでええ打ち込みうどんが多かった。しっぽくとかな。しっぽくも野菜やなんか放り込んだりな。しっぽくは昔から「しっぽく」言うてた。私や「しっぽく」いうたら野菜やなんか放り込むけんあんま好きでなかったけん、普通のうどんの方が好きやったけど。麺を茹でんとすぐ放り込む。んだけんダシが粘るんや。それが好きな人もあるんでな。
どじょううどんは、どじょうが好かんけん私は食べたことない。どじょううどんいうんは観音寺の方はあんま食べんな。高瀬とか山の方行ったら食べよったけど、観音寺の人はどじょうは食べよらなんだ。
うどん粉は皆、買うてきよったわな。田舎の人で小麦作っとるとこは挽いてもろうてな、粉にしよったかもしれんけど、観音寺の人はみんな買うてきて自分で打っちょった。
戦前戦後は「映画観てうどん食べて帰る」のが定番コース
昔は「柳川」の先代のおじいさんがいつでも屋台で来てな。道の角でな、夜にうどん売るんじゃ。映画館の開き(終了)が来たらな、みんな屋台で立ち食いするんや。昔の映画館は昼はそんなにせんけん、夜にやっとった。夜に映画館行って、帰りに私も立ち食いしたがな。観音寺のうどん屋さんは、どこでも映画が開く(終わる)まではな、夜までしよるとこは開けとったで。
仮屋の方はな「藤村」さんのところに寄って帰るし、川原町いうて川筋の方では「たごと」さんいううどん屋があってな。そういうようなとこ寄ってな。終戦後も若い子がな、ダンスホールがあったりしてな、ダンスが開いたらお好み焼きやらうどんやら食べて田舎の方に帰るけんな。
高松も私は焼ける前はよう行ったんやけどな。戦前に女学校いっきょる時な、こっちで映画行ったら顔も名前も知られとるけん怒られるけん、私服着て友達と高松まで行ってな、三越の上でご飯食べて、ライオンカンで映画観て帰ってきよった。親には「高松遊びに行きたい行きたい」ってお金もろうてな。高松の片原町にもおうどん屋があって、高松に行った時にはよう食べた。
三越が焼けた後で行った時にな、上に進駐軍が来てな、「メトロ」いうてダンスホールができたんや。ほんで、その頃に一緒に遊びよった友達が、女学校出て東京の学校行っきょってな。東京で「フロレッタ」いうダンスホールに通ってダンス習ろうてきたんや。それで「ダンスっちゅんは面白いけん行こう」いうて、観音寺にないから高松やいうんで行たんや。
行ったらエレベーターないけん、上に上がるのにな、下は全部焼けててな、ガラス踏みもって友達と二人で階段上がったで(笑)。ほしたら外人の兵隊さんがおるけん、おとろし(恐ろしい)てな。「あんたこんなところいたらいかん。連れて行かれるで。はよ帰らんな」言われて戻ったことがある(笑)。
高松が空襲で焼けた時な、観音寺から高松の方の空が赤うに見えたんで。福山が焼けた時も見えた言うで。雲が真っ赤になったいうて。昭和18年に高松に教員免許の試験受けに行った時に、空襲警報が鳴ってな、難しいん書っきょったんやけど、「それほっといて防空壕入ってください」って言われて入って。出てきたら「試験はもうよろしい」いうて。昔はざっとしとったわ(笑)。
●編集部より…久しぶりに戦前の話が聞けました。観音寺の古いうどん屋さんの名前とともに、観音寺に「屋台のうどん」が出ていたという話、しかもその大将が柳川の先代のおじいさんだったという新証言も。ちなみに、映画館やダンスホールによく行っていたという話を読むと、「戦争って、日本中隅から隅まで絶望的に悲惨だったわけじゃないのか?」と思ってしまいますが(笑)。