香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市丸亀町・昭和31年生まれの男性の証言

高松の中心街のうどんの記憶(「街角に音楽を@香川」代表理事 鹿庭弘百さんのお話)

(取材・文:

  • [showa]
  • vol: 279
  • 2018.08.27

甘めのダシの「源芳」

子どもの頃のうどんの思い出をお伺いできますか?
 うちはね、丸亀町3丁目で「鹿庭カバン」っていう商売やってたの。何人か住み込みの人がいたり、店員さんがいてね。昼になると、お手伝いさんがうどん屋から玉を買ってきてみんなに作ってくれてたの。かけうどんだったり、夏はざるの時もあったよね。
どちらからうどんを買っていたんですか?
 「源芳(げんよし)」。今はもうないんだけど、おいしかったよ。当時はセルフの店なんてないからフルサービスの店でね。玉売りもしてたから、近所の人は玉を買いに行っていたの。お店のうどんは麺の塩気が強くてしっかりしてて、ダシは気持ち甘いんだよね。ガツンとイリコ味! ではないのよ。何とも言えない甘さ。お店にはたまに食べに行くこともあったけど、お揚げや「おくずし」がのってたかな。「おくずし」は「くずし」に「お」を付けただけなんだけど、かまぼこのような練り物のこと。そういえば、なんでも「お」を付けるよね。おうどん、お揚げさん、おくずし、おだし(笑)。
当時はひと玉いくらでしたか。
 買ってきてもらってたからね…。当時は「源芳」に限らず、だいたいうどんが20円、中華そばが30円ってどこかに覚えがある。本当に安いうどん屋は10円。トッピングのせたら15円。

高松の中央商店街にはあまりうどん店がなかった

源芳さんは高松の中央商店街から少し離れていたと思うんですが、商店街にはうどん屋はなかったんですか?
 今みたいに多くはなかったよね。まずね、うどんはやっぱり「家庭で作るもの、食べるもの」っていう感覚じゃない? もしくは玉を買ってくる。「うどんを食べに行く」っていう習慣がないんだよね。うどんブームをきっかけに外食的な文化に変わってきたけれども、基本は「郷土料理」、「家庭の味」なんだよね。

 その中で、外に食べに行くうどんとしては、「アズマヤ」は記憶にあるね。、喫茶店にうどんがあるってことで有名になったからね。そこのホットサンドがおいしかったね。でも、アズマヤも中央商店街の中じゃないけどね。

 あと、記憶では片原町に「羽島」っていう名前のうどん屋があったね。フェリー通りから一本入った古天神の裏でやってた。でも、もともとは中華の「北京」の横のかばん屋の隣でやってたらしいね。そのあと古天神に移ったの。昭和40年代かな。ここのおやじさんはサービス精神が旺盛で、お客さんの顔を見て、注文を聞いてから打ってたね。「打つ」作業を見せてくれるんだよ。そういう意味では、ちゃんと「讃岐うどん」を意識してやってたという気がするね。

県外のお客様には、どこのうどん屋を案内していますか?
 僕の場合は仕事柄、公演で呼んだミュージシャンとかパフォーマーを案内することが多いから、案内できる時間がたいてい、うどん屋が閉まっている時間帯なんだよね。その中では美術館通りにあった「かな泉」はおいしくて、お店としてもきちんとしていたから、お客様が来てもよく連れて行ったよね。

 「かな泉」は、ある意味で讃岐うどんの文化を牽引したお店じゃないかと思う。でもね、今はメジャーというよりも、マイナーな方が求められるんだよね。山奥に食べに行ったり、畑の真ん中で食べたりね。そこで「麺を作っている」「顔が見える」ということが日の目を見始めたのは最近だと思うよ。「マイナーなんだけど、それが文化」みたいなものが認められてきたってことじゃないかと思う。後は、瀬戸大橋ができたことも大きいよね。

 どこにでもあるようなものは吸収されていくし、でも、うどん文化のような「香川にしかない、ここでしかない、オリジナルのもの」にはみんな惹かれていくという、当然の流通ができたね。橋代が五千円だったとしても、うどんは千円あったらいいしね(笑)。

ページTOPへ