香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市国分寺町・昭和12年生まれの女性の証言

父の「一日うどん屋」に見た“おもてなし”の心(香川県食農アドバイザー・農学博士・管理栄養士・元明善短期大学学長/川染節江さんのお話)

(取材・文:

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  • vol: 277
  • 2018.08.20

学生から名家の奥様まで集っていた「天勝」

 昭和25年頃、明善(現英明高校)の女学生だった私は、友達のみっちゃんと学校の通り道の高松駅近くにあった「天勝」でよくうどんを食べていました。当時の天勝のうどんは、今のファストフード的な出し方ではなく、湯だめのうどんにおつゆが別になっていて、煮干しのダシだったように思います。

 その時代、学生が喫茶店やうどん屋へ出入りするのは御法度だったのですが、なぜか黙認(?)されていたお店が「天勝」でした。「うどんの出る喫茶」としてよく名前の挙がっていた「アズマヤ」もそうだったかもしれませんが、友達のみっちゃんが天勝の方と知り合いだったこともあって、私は天勝さんとずいぶん親しくさせていただきました。

 当時は今のように三越のドームのあたりもお店が少なくて、少し離れた天勝には学生だけではなく、名家の奥様方も来られてとてもにぎわっていました。お店の看板に「うどん屋」と記さなかったのも、品格や格式を大切にしていたご主人のこだわりだったのかもしれません。私は卒業してからも、県外の方のおもてなしやクラス会などでよく「天勝」を使わせていただきましたよ。

「味覚の地域性」に目覚めた昭和40年代

 昭和43年から44年まで、農林水産省の研究所へ短期留学のため東京に住んでいたのですが、東京で食べたうどんのつゆがあまりにも黒々としていて本当にびっくりしました。ところが、東京の人に聞くと「関西は色のついてない水っぽいおつゆでうどんを食べてるんでしょ? 何か頼りないわね」と言われるのです。それを聞いて、「なるほど、地域によってそんなに感じ方が違うのか」ということを改めて知りました。

 私はかつて、調理を教える立場として「自分がおいしいと思っているものを、本当に生徒も同じように感じているのだろうか?」という疑問を持ち、中学1年生から高校3年生までを対象に、コーヒーと紅茶に砂糖を入れて年齢別の味覚調査をしたことがありましたが、この東京での出来事で「味覚の地域性」というものに大きな興味を持ったのを覚えています。

 その後、34歳の時(昭和46年)に中四国の学会で「外食産業の成長と讃岐うどん」に関する発表をすることになった時、同時に「うどんダシの地域性」を調べようと思い立って、四国中の店を回ってダシを集めました。集めたと言っても、実はフィルムケースを持って店に入り、客としてうどんを頂いた後、テーブルの下でそっとダシをフィルムケースに入れて持って帰るという怪しい収集方法でしたが(笑)、それを持ち帰ってダシの味や成分、色合い、濁り具合等々を比較し、地域ごとに違いを分析したこともあります。

 ちなみに、この時の外食産業の成長をテーマとした学会の内容は、「弁当持ちはもう古い!」という大見出しで四国新聞に取り上げられました。つまり、昭和40年代前半までは、サラリーマンの昼食は「弁当」が主流で、40年代中盤あたりから外食産業が成長し始めたようですから、サラリーマンの昼食仕様の讃岐うどんもこの頃から広まり始めたのではないでしょうか。

父の「一日うどん屋」に見た“おもてなし”の心

 うどんに関する思い出でもう一つ忘れられないのは、幼い頃に亡くなった父が年に1回だけうどんを振る舞っていた時のことです。父は器用な人で、結婚式の料理人としてキュウリで亀を作ったりサトイモで鯛を作ったり、今で言う飾り包丁の野菜アート職人のようなことをやっていましたが(それは見事な腕前でした)、そんな父が冬の1日だけ、「うどん屋」になる日がありました。

 私が住んでいた国分寺には夏と冬に市があり、その日は通りにお菓子屋やビリヤード場、パン屋などが並び(このパンのいい香りは、本当にいつも幸せな気持ちにしてくれました)、夏は金魚すくい、冬はうどんが振る舞われていました。また、当日は白峯寺から何百人もの白装束をまとったお遍路さんが山を下りてきて、国分寺の通りは大にぎわいになっていたのですが、そこで冬の1日だけ、父がお遍路さんたちにうどんを作って振る舞っていたのです。

 父は料理を作る時はいつも相手の状態をすごく気遣っていて、寒い中、山から下りてくるお遍路さんのことを思って、いつもより濃いめにダシでとびきり熱くしたうどんを作っていました。そして、うどんを振る舞うといつも「見よってみー、『ダシがおいしい! 生き返ったー!』言うわ」と言いながらうどんを食べるお遍路さんを見ているのです。すると、父の言う通り、ダシを一口飲んだお遍路さんたちから口々に「生き返るわー!」という声がする。それを聞いて、父はたまらなくうれしそうな顔をするんです。

 今思い起こせば、私の幼心に残る年にたった1日だけのこの父の姿が、まさに讃岐うどんの「おもてなしの心」に他ならないと思います。食を研究する者として、また「おもてなしの心を大切にする讃岐人」として、私にとって忘れられない記憶です。

讃岐うどんは「楽しみ」の食事

 今後の讃岐うどん作りは、まず、うどん自体がおいしくなくてはならないと思います。今は「空腹を満たせばいい」という「生理的な食事」が全ての時代ではない。これだけ讃岐の人が「うどん、うどん」と言うのは、「うどんは別腹」という「楽しみとしての食事」の意味合いが強いのではないかと思います。

 先日の四国新聞に掲載されたデータによると、「日本そば・うどん」の年間支出金額ランキングで、香川県(高松市)は2位の福井市に倍以上の差をつけて断然の全国1位に輝いていました。讃岐うどんは全国のうどんやそばに比べて単価がかなり安いにも関わらず、金額ベースでこれほど独走しているということは、やはりそこに「楽しみ」があるからではないでしょうか。

 シンプルだからこそ、ごまかしのきかない「うどん」。ダシも本物で「サッ!」と決まる。うどんも本物で「ピタッ!」と決まる。材料、素材が単純だからこそ、その神髄を突く職人の技に作り手も食べる側も興味が湧き、それを楽しんでいるように思います。ただし、うどんもいいけれど、香川にはそれ以外の四季折々の郷土の食べ物もあるということも知ってほしいと思います(笑)。

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