<小学校のバザーで舌が肥えた(笑)>
“幻のトウガラシ”「香川本鷹」をはじめ讃岐の名産を数多く取り扱う「おいしこく株式会社」の松井社長は、同社を起業する前には製麺会社にお勤めだったということもあって、讃岐うどんには人一倍の思い入れがあるはず…と勝手に想像しながら(笑)、お話をお伺いしました。
ーー早速ですが、子供の頃からのうどんの思い出をお聞かせください。
私は昭和36年に坂出市の文京町で生まれました。実家は当時の予讃線の線路のすぐ南側、JR坂出駅から西に600mくらいのところで、裏が当時の坂出市立病院でしたから、まあ坂出の中心街ですね。僕が通ってたのは坂出市立中央小学校で、今は廃校になって坂出市立病院がそこに移転してますけど、当時は幼稚園も小学校も同級生の半分は商店街の子供たちでした。踏切から北側の本町や寿町は布で引っ張って張るアーケードがついた商店街で、踏切の南の「日の出製麺所」さんがある通り(富士見通り)も当時はアーケードのない商店街で、道沿いにお店が軒を連ねていました。
--子供の頃はどういううどんを食べてましたか?
家では「池田屋」さんや「日の出」さんの茹でうどんを買ってきて、かけうどんにして食べていましたね。ダシはうちのばあさんが一から作ってましたけど、どこかからのタイミングで「本だし」が半分ぐらい入り始めたような気がします(笑)。うどんに入るのはカマボコとネギ。他に具材はなかったですね。
あとは、小学校の運動会とかの時にバザーで食べたうどんがおいしかった記憶があります。他の小学校のバザーがどんなだったか知りませんけど、当時の坂出中央小学校は寿司屋の子はいるし料亭の子もいるし、とにかく飲食店の子が多くて、そこから人も材料も出てくるから、とにかくバザーの質が高いんです。もう、坂出のグルメオンパレードみたいな小学校のバザーでしたよ(笑)。だから、給食が嫌いな子は多かったけど、バザーはみんな喜んで食べていました。何しろ、どのメニューもみんなお店の味ですから、おでん一つでもすごくおいしかった。しかも、それが安いバザー値段で食べられるんですから。たぶんみんな、小学校時代に舌が肥えたんじゃないかと思います(笑)。そこで当然うどんもメニューにあったんですけど、同級生の大山君の家が「大山食堂」で、「大山食堂のうどん」がそのままバザーに出てました。もう大人気でしたよ。
<昭和40年代後半に、坂出にいきなりセルフ店が2つもできた>
おぼろげな記憶ですけど、僕が小学校の高学年の時(昭和40年代後半)に、坂出の今の学園通りに同じ時期に25席ぐらいの小型のセルフ店がいきなり二つできたんです。それまでの坂出のうどん屋さんというのは、うどんだけでなくて中華そばや寿司やいろんなものが食べられる大衆食堂ばかりで、うどん専門店はおそらくなかったと思うんです。ところが、そこへうどん専門のしかもセルフの店がいきなりできて、しかも、うどん1杯30円という安さでびっくりしたのを覚えています。当時は確かラーメンが70円くらいしてましたから、あの値段は衝撃でしたね。それが僕のセルフ型うどん店との最初の出会いでした。
--大阪万博のあった昭和45年あたりが「大衆食堂的なうどん店」から「うどん専門店」へ移行していく一つの時代だと言われていますが、まさにちょうどその頃の出来事ですね。
そうですね。僕が生まれた文京町あたりで言ったら、当時の有名な製麺所は「池田屋」さん、「日の出」さん、「上原」さんに「塩飽屋」さん。他にも、今の坂出の図書館の近くや日の出さんの近くにも小さい製麺所さんがいくつかあった記憶があります。それで、近隣に食堂や八百屋さんもたくさんあったから、そこに茹でうどんの玉を卸していた。そういう「小さい製麺屋さんと小さい食堂や八百屋さんがたくさんあって、そこで茹でうどんが回っていた」といううどん文化が根付いていたんだと思います。
それが、スーパーマーケットの出現でどんどん市場が集約されていって、うどんを作る製麺屋さんも、うどんを売る食堂や八百屋さんも、小さいところがどんどんなくなっていったんですね。坂出は番の州工業地帯の繁栄で、よその町より早くローカル系のスーパーがたくさんできたと思いますよ。黎明期のマルナカが坂出に出てくる前から、トミーさんや鉄道共済会の購買部みたいなスーパーができたし、駒止町か笠指町あたりにも駅南スーパーができました。
ーーということは、坂出は、古くからある小さな製麺屋さんがよその町より早く減っていったのかもしれませんね。
<小僧寿し系のうどんチェーン(?)「あまぎり」が出現>
ちなみに、さっき言ったセルフの店2軒は、意外と早く閉めたんですね。両方が競り合って共倒れしたみたいに。その後、すぐにまた別のセルフのうどん店ができたんですけど、それが「小僧寿し」さんの敷地の中。僕が中学生の頃、文京町にあった小僧寿しさんの工場のバックヤードが突然セルフのうどん店に変わったんです。
--えっ?! 「小僧寿し」がうどん屋を?
「あまぎり」という名前のセルフうどん店です。いろいろ調べてたら、私がかつて勤めてた製麺メーカーの関連会社の製麺機メーカーがそこに製麺機を卸してたみたいなんですけど、「あまぎり」は小僧寿し系のうどんチェーンだったのかなあ。
--小僧寿しがうどんチェーンをやってたとしたら初耳ですね。
周りに駐車場と畑しかないような工場の跡地にどーんと建っていて、当時はかなり異質な感じのうどん店でしたね。坂出高校の正門の前から北に200~300mのところにありましたから、当時の坂高生はみんな知ってると思いますよ。僕は中学も高校も丸亀に通ってましたけど、中学校以降のうどんの思い出の中でも「あまぎり」は忘れられません。その後、「あまぎり」は市役所の裏の交差点のところに引っ越して、今はもう店はなくなっていますけどね。
<高校時代は丸亀の「四國うどん」でたむろ>
--中学高校時代に、丸亀でうどんの思い出はありますか?
丸亀で「買い食い」を覚えてしまいましたね(笑)。中学校の後半くらいから高校時代にかけて“たまり場”にしてたのが「四國うどん」さんです。丸亀の大手町のクラブ・スナック街にあったんですけど、3階建ての大箱で、その1階が四國うどんでした。
フルサービスの店でね、そこの昼のうどんセットがすごくおいしくて。セットメニューは釜揚げうどんに俵型のおむすびが付くんですよ。それに柴漬けとたくあんとキュウリのキューちゃんみたいな三種の漬物が付いて、これがすごく上品に感じた記憶があります。僕は四國うどんで釜揚げうどんと“上品なおむすび”の味を知りましたね。また、ここのおばちゃんがよくしてくれましてね。よく3階の片隅でたむろさせていただきました(笑)。
あとは、安く上げる時には裁判所の近くにあったセルフの店とか、「こいこいうどん」にも行ってました。「こいこい」の夏の冷やしうどんはすごかったですよ。ただでさえ固めの麺にかき氷を載せるから締まりに締まって、超剛麺でした。あと、中華そばの「喜楽」や「豚太郎」も行ってましたね。
ーー高校生なのに、ずいぶんいろいろと(笑)。
<力うどんの大学時代>
--大学時代のうどんと言えば?
大学時代は神戸に住んでいて、垂水区から明石市あたりを根城にしていたんですが、「力餅食堂」で力餅うどんをよく食べていました。かけうどんの中に餅が入ってる、いわゆる「力うどん」。力餅食堂はうどんメニューと丼メニューが主力で、店頭でおはぎと餅も売っているという関西のチェーン店ですけど、当時はすごい勢力で、大阪の私鉄とJRの主な駅のそばにはたいてい店がありました。他の和食店や洋食店より少し安くて、何より餅が入っているから腹持ちがいいし、関西系のカツオと昆布のダシに餅がまたよく合うんです。
--うどんの味は香川と比べてどうでしたか?
もう、別ものですね。香川のうどんは麺が主張するというか、麺の好き嫌いが好みを大きく左右するけど、向こうは麺という概念があまりないのか、うどんの麺が「汁物の白ネタ」みたいな存在なんですよね。中国なんかはスープの種類が山ほどあって、その中に入れる麺を適当に選べるみたいな料理が結構あるんですけど、関西もまさにそれ。スープというか、おダシが先にあって、それを邪魔しない炭水化物が中にうごめいていらっしゃるという感じ(笑)。関西のうどんって、麺が料理の主役ではなく脇役なんだと思いましたね。
ーーなるほど。香川のうどんは麺とダシだけで食べられるけど、関西のうどんはダシと具材で、麺はその具材の一つですか。
そんなふうに感じましたね。だから、ヘロヘロでフニャフニャの麺でもみんな「うまいうまい」って食べてるんじゃないかと。そのせいかどうか、大学時代に帰省してよく食べていた文京町の学園通りにあった「鎌田食堂」の剛麺系のうどんが、やたらうまかった記憶があります。
<連絡船うどんは上りと下りで「情緒」にマッチしていた>
ーー帰省というと、連絡船のうどんは食べられましたか?
食べましたね。あれは麺のうまさというより「情緒」で食べていたから、作り置きのゆで麺でもおいしかったんでしょうね。しかも、あの情緒がまた理にかなってるんですよ。麺は香川で作って船に積み込むから、上り(高松から宇野行き)の連絡船のうどんはまだコシがあるんですね。でも、下りはそれが戻ってくる便になっちゃうからコシが抜けてるんですよ。それが、香川から宇野に行く時は「行くぞー!」という気持ちで行くからコシのあるうどんが勢いを付けてくれて、逆に帰ってくる時は「いろいろあったよねー」とか思ってちょっとくたびれた気持ちになっているところへ、あのくたびれた麺のうどんが慰めてくれる…というふうに、何だかマッチするんですよ(笑)。あれが逆だったら、たぶんみんなの連絡船うどんに対する印象は悪くなっていたと思います(笑)。
--おもしろい感覚ですね。でも、そんな情緒もなくなってしまいましたが。
橋が架かるまでは、四国はある意味「日本の中の外国」みたいな部分があって、それが独自の文化や情緒を育んできたとも言えると思うんですが、橋が架かって以降「国内グローバル化」がいっぺんに進んで、いろんなものが単調になってきたように思います。
香川県産小麦にしても、香川は指定品種のくくりが狭いんですよ。例えば長野県はそば粉の指定が3~4品種あるのに、香川は「さぬきの夢」しかない。夢2009はだいぶいいものになりましたけど、違う切り口の小麦をもう2種類ぐらい持っておいて多様化に応えた方がいい。うどんもトッピングやメニューの多様化じゃなくて、麺の食感の多様さで名物になってきたんだから、食感の即影響する小麦粉の多様さの方が大事だと思います。昔の小麦が香川に来ればまだ食えるとか、この地でうどん用小麦が5~6品種くらいあったら、まさに「うどん王国」と呼べますよ。輸入外麦がほとんどになると大手製粉メーカーの独占になっていきますけど、多様性を持たせていけば中小メーカーにも生き残りの目が出てくるかも知れないし。
<讃岐うどん巡りブームで“うどん観光”のスタイルも様変わりした>
--讃岐うどん業界の将来の話になりましたけど、ちょっと歴史に戻って、大学を出て社会人になってからのうどんの思い出をお聞かせください。
最初は大阪で就職して、その後、勤めていた会社の業務縮小を機に、25~26歳ぐらいの時に地元香川に帰って再就職をしました。そこで10年くらい働いて、35歳の時に「地場産業に関わりたい」という気持ちがあって、讃岐うどん業界に入りました。
--その頃の讃岐うどん業界はどんな感じでしたか?
1996年ですから、讃岐うどん巡りブームが始まった頃ですね。実は僕、若い時から『タウン情報かがわ』のファンで、「ゲリラうどん通ごっこ」が大好きだったんです。それが2000年頃にかけて全国のメディアが追っかけだしてあっという間にブームになって。『恐るべきさぬきうどん』が新潮文庫で文庫化されたり、東京に「はなまる」さんと「めりけんや」さんが進出した頃(2002年)には、県外の人が讃岐うどん巡りに来るエネルギーがピークに達したような気がします。とにかく、「ゲリラうどん通ごっこ」や『恐るべきさぬきうどん』の文章を読んだら、「山越」さんの説明にしてもド僻地的な書き方がすごく想像力をかき立てられましたね。あれはほんとに都会受けしました。
「山越」や「谷川米穀店」や「がもう」や、ああいったタイプの店がメディアに出るようになって、東京なんかから来る取引先の接待でも、ちゃんとした店を用意していたら「こういうきちっとした店じゃなくて、もっとあるでしょ?」みたいなことを言われるようになって(笑)。田尾さんの言うところの「針の穴場」的なところに「時間合ったら途中連れて行ってくれない?」とか、「いや、昼飯時混んでるからもっと朝早く行ったほうがいいですよ」みたいな会話が県外の人と普通に交わされるようになりました。とにかく、あれで“讃岐うどん観光”のスタイルも完全に様変わりしましたね。それまでほとんど無視されていたような小さな製麺屋さんが、いっぺんに「讃岐うどん巡り」の超人気店になってしまったんですから。
<上品で高級感のある店も讃岐うどんの世界の魅力>
ーーそしてその頃、松井さんは地元の製麺会社でお土産うどんの企画開発や営業をされていたわけですね。
はい。おかげで「うどん」にはかなり精通できましたし、外回りでは沖縄以外、全国津々浦々まで行かせていただきました。
ーー香川県外のうどんで印象に残っているものはありますか?
個人的には九州系のうどんが好きですね。麺の食感はやさしいけど、コシはちゃんとある。向こうのダシメーカーさんの方にいろんなところに連れて行っていただいたんですけど、小倉の立ち食いうどんから始まって、軒並みレベルが高いと思いました。
中でも博多の「牧のうどん」の肉うどんが僕の好みの味でした。牧のうどんの麺は「固(かた)、並(なみ)、柔(やわ)」の3種類から選べたんです。3種類と言っても同じ麺でゆで時間を変えているだけですけど、「並」が一番うまくて、あえて“九州系”を味わいたかったら「柔」がいいかと。牧のさんの麺は太いから、「固」はちょっと僕には食えなかった(笑)。
あとは、うどんじゃないけど明石駅の駅ナカ商店街みたいなところになぜか「きしめん」の店があったんですね。そこのダシのすっきり感が非常に印象に残っています。麺も少し細めの上品なフィットチーネ状態の麺で、おいしい上にすごく高級感がありました。
ーー香川もブーム以降、上品で高級感のあるうどん店がずいぶん増えたような気がしますね。
個人的には、ライオン通の「こんぴらうどん」さんがいい感じの高級感を出していると思います。器もいいし、女将さんもいつも着物を着ていて雰囲気があるし、大将も常に手抜きなしで上品な細麺のうどんを丁寧に出す。1000円を超える牛しゃぶうどんは高級感たっぷりで、ほんとにうまいですよ。ああいう雰囲気のお店もしっかりと存在してくれるから、讃岐うどんの価値ある多様性が受け継がれていくんですね。