「まんどぐるま」でうどんを買っていた
子どもの頃やから昭和30年頃かな。家の近所に「まんどぐるま」があって、うどんはそこへ買いに行っとった。「まんどぐるま」いうんは本津川にあった水車の名前で、ここは昔から水車で粉をひいとったんや。田んぼで作った小麦をそこへ持っていくと、通帳みたいなんをくれる。それで、いる時にうどん何玉とか言うて、通帳に書いてもらいよった。うどん買う時に現金は使いよらんかった。「まんどぐるま」には出入り口が2つあって、右側ではうどん打ちよって、左側が精米所になっとった。入口の入ったとこに俵を置いとったわ。
昭和45、46年くらいまでは水車があって、回りよった。動力は水車やったけんな。途中からモーターとかも使いよったかも分からんけど、そこまでは見とらんな。パンも売りよったわ。それから、乾麺の冷や麦も作りよった。延ばして干しとったわ。それで和紙で束ねてそうめんみたいにしとった。近くにうどん屋があったから、家でうどんをする人やおらんかったん違うかな。「まんどぐるま」は人気のうどん店やったが、現在は営業休止中でさみしいかぎりや。
うどんに写る新聞の字
店でうどん玉を買うと新聞に包んでくれるんや。ほんまに、新聞紙でじかに巻きよったけんな。今やったら衛生面がどうのこうのでいかんのやろうけど。そしたらの、家に帰ったら新聞がくっついとっての。そんで開けてみたら新聞の字がうどんに写っとったりしとったわ。びっくりしたり笑ったりしながら、そのまま食べよったわ。それが当たり前やったけんな。
一杯10円台のかけうどん
昭和38年に坂出商業高校の1年やったけど、学校の向かいに食堂があってな。そこではすうどん、かけやな、それが1杯10円やった。その頃、学校で売ってたパンも10円やった。その頃にはまだ「大盛り」という言葉はなかった。昭和45年に丸亀に行くようになったんやけど、そん時は、学生食堂、学校の生徒が食べるとこな、そこでうどんは1杯15円、コロッケは5円やったわ。
かまぼこやおあげはお客さん用
家でうどんする時に載せるんはネギとかショウガくらい。ネギはあってもショウガはない時はよくあった。母が煮干しで出汁とってな。かまぼことかおあげ載せるんはお客さんに出す時だけやったわな。
獅子舞の練習の後にうどんが出された
小学校の4、5年やから、昭和の33年くらいや。夜に獅子(舞)の練習した後、炊き込みごはんとかうどんが出されよった。それが楽しみやった。うどんはそんなに食べさせてくれんかった。ほとんどは炊き込みごはんや。白ご飯でないんは、白ご飯やとおかずがいるからや。祭りの2週間くらい前から獅子の練習に呼ばれよった。
法事の揚げ物には色が付いていた
法事の時はうどんとか、ばら寿司とか天ぷら、揚げ物言いよったけど、そんなんが出よったな。天ぷらはゴボウとかサツマイモで、派手に見せようと、色粉で色を付けとったわ。なぜかゴボウは緑、サツマイモは黄色やった。法事に行ったらお土産に、ゆであがっとるうどんや天ぷらみたいなんをもらって帰ってきよった。お土産にうどんもらっとったんは昭和30年頃からかな。楽しみやった。
高鉢山でうどんを食べた
昭和の45年ごろ、航空灯台のあった高鉢山に峠があって、そこの茶店みたいなとこへ、たまたま寄ることがあった。その店にはうどんを置いとった。20円くらいやったかな。「何でうどん置いとるんですか?」と聞いた。そしたら、「田んぼしよる人とかが、山登ったり下りたりするん面倒くさいけん、お昼にうどん食べに来るんや」と言いよった。峠付近は家も少なく、農家いうてもかなり遠いみたいやから、この店は重宝しとったんと違うかな。