農作業の後で打ち込みうどん
子供の頃(昭和20年代)の記憶やけど、うちは農家だったから、平日は暗くなるまで農作業して、ほんで帰ってきてからご飯せないかんやん。うちはじいさんとかばあさんとかがおらんかったけん、ご飯は朝しか炊かんのやけど、晩にご飯が足らん言うたら、何かを足しにせないかん。そんな時に、親父がメリケン粉を練ってくれた。
ほんまはちょっと足で踏んで3時間くらい置いとったら粘り気が出てええんやけど、お腹すいとるからそういうわけにはいかんけん、あんまり寝かさんとうどん玉にする。そういう打ち込みうどんいうんが主流やったんや。
打ち込みうどんは、自分ちの畑で採れた里芋とか大根とか、お揚げとかを入れて味付けする。味付けは、家によっては醤油のとこもあれば味噌のとこもある。その野菜が入った鍋の中へ生のうどんを放り込むんや。生のうどんを放り込むけん、溶けるみたいな感じになるやろ。それを丼鉢で食べるんやけど、僕はそのどろどろしたうどんが好かんでなあ(笑)。
打ち込みの麺は塩を入れないんや。塩が入っとったら、打ち込みのダシに溶け出して塩辛うなるからな。麺に塩が入ってない分、水分少なめで固とうにするんやがな。足で踏んで、それを切って入れる。おいしかったで。僕の友達がそういうのんが好きで、そいつが作るんは格別においしいんや。丸亀ではドジョウうどんもしよったな。打ち込みの里芋の代わりにドジョウ入れたりするのが違うだけで。
水を守って田植えがうまくいったらうどんで打ち上げ
小麦は雨が降ったらカビが生えてパーになってしまうんや。香川は雨があんまり振らんけん、中讃地域はどこに行っても小麦のええやつができたわけや。そのかわり、コメを作る時は水が足りんのや。やからこの中讃地域いうんは水争いが絶えなくて、ケンカとか殺人事件もあったような地域なんや。
飯山町の南の方に大きな池があるんやけど、その池の水の権利があって、池の水をうちの地区まで引いてくるようにせないかん。それを地区の人が二人一緒になって交代交代で24時間監視に行くん。どうしてそこまでするかいうたら、途中で悪いやつが堰して自分のところに水入れたりするけん。「何日の何時から何時まではうちの地区の権利」というのになっとんやけど、こっそり盗む悪い奴がおるんや。そのために24時間で近所の地区でゴザみたいな筵敷いて、そこで寝たり世間話しながら自分の時間が来るん待つ。時間が来たら池まで見に行って、途中で悪いやつが堰して水盗んでたらいかんから、ちゃんと水が来てるかずっと点検する。
8月の盆過ぎぐらいの時に、水を田んぼに一気に入れる時期があるんや。8月盆過ぎから末くらいの時に水をいっぱい入れて、その水が少なくなった頃に稲の花が咲くような感じになるん。それで、8月の終わり頃にそれが終わったらうどんを作る。地区ごとに必ずうどん作るのうまい奴がおるんや。ダシはだいたい女の人が作る。んで、ドジョウを獲ってくる。ドジョウは川にいっぱいおったけん、それを獲って水で洗って、焼酎みたいなんをぱっと入れて泥を吐かせて、ドジョウうどんを作る。ビール飲んだりして「今年も水が入ってよかった」言うて、打ち上げみたいなんするんや。うどん(麺)は、晩ご飯が足りん時に急いで作るんと違って、田んぼが終わって打ち上げする日が事前に決まるから、前の日に練って一晩寝かしといてな。
昔のうどんは麺が柔らかくてダシがうまかった
店のうどんの記憶いうたら、多度津町に「小町食堂」いうんがあって、そこのうどんはちょっと有名だった。ダシがおいしかった。他にも多度津の本通りに何軒か有名なうどん屋があった。多度津町の中心部からちょっと行ったところにも、おばあさんがしよった「渡辺」いううどん屋さんがあった。そこはダシを取るイリコの頭と内臓を全部のけるんや。それを炊く鍋の水の中に入れて、一晩そのまま置いとくんや。んで次の日に炊いたらダシが出るんやの。あそこのうどんはうまかった。うどんの麺はトンネルのそばにある「平野屋」いううどん屋さんから持ってきてもらいよった。平野屋も今みたいな店になる前は配達するうどん屋やったと思う。自分のとこでは食べさせてなかった。
昔のうどんはとにかくダシがおいしかったんや。今は麺のコシばっかり言うて、ダシがうもない。最近のはどっかで作ったようなダシ醤油みたいなんを買ってきて入れたようなうどんのダシばっかりやけん。
あとは、当時のうどんは今の店で出てくる讃岐うどんっていうのとは違って、麺が柔らかかったように思うな。粉のせいなのか、小麦の弾力が今よりなかったんやないかと思う。「うどんにコシがある」とかいうのは、だいぶあとの話やろ。誰かが仕掛けてブームが来たりして、うどんが進化してそういうふうになったんやと思う。とにかく僕が子供の頃は、うどんいうんは柔らこうて、あんまり噛まずに飲み込んでたんや。
小学校の帰りにおやつでうどんを食べていた
打ち込みうどん以外にも、家でうどん食べる時はうどん玉を一つ5円とか8円とかで買ってきて、それを自分の家でダシを作って食べよった。ダシは家によって味が違うけど、どこもおいしかったと思うで。そこにお揚げが乗っとるんが私は好きやった。あと、大根を薄うに切ったやつ。うちで入れよったんはお揚げと大根やった。その味はおふくろが亡くなってからは食べてないけど、今でもよう覚えとる。
飯山の田舎の繁華街の角のところに散髪屋さんがあって、散髪に行く時に100円親からもらって行きよったん。ほんで70円か80円で散髪のお金払うて、斜め前のうどん屋でうどん食べたらちょうど100円がなしなっりょった。お昼ご飯とかじゃなくて、おやつみたいな時に食べよったうどんで、それが僕の小学校の時の楽しみやった。
そんなんで、うどんを食べるのは主に田んぼが済んだ時と、晩に御飯が足らなかったら打ち込みうどんをしたりするぐらいだったかな。店屋で食べるいうんは、学校の帰りにお腹すいたりしたら食べる程度で、家族がみんな揃って外に食べに行くいうんはなかったな。家族で食べる時は八百屋で玉を買って来て、自分ちでダシを作って食べよった。八百屋さんは何でも屋みたいなもんやったけん、製麺所から仕入れたうどん玉も売っとったし、豆腐も、ハエ取り紙も売っとったし。
中讃のうどんのルーツは「小縣家」、チェーン店の走りは「四國屋」
製麺所は、八百屋さんとかいろんな小売してくれる店や食堂にうどんを卸しよったけど、近所のおっさんらが来て「悪いけど醤油かけて食べるきに、玉一つくれ」言うたら売ってくれるやん。で、醤油かけて食べてうまかったいうんが、今の製麺所タイプのうどん屋の源流みたいな感じ。それで「製麺所でうどん食べる」いうんが昭和40年くらいからできてきたんや。
そのうち、ダシも作ってな。醤油だけやなくて、ダシでも食べさせるようになった。玉が50円やったら70円とかそれくらいで食べられる。それがおいしかったんや。まんのう町の「小縣家」いうんは元々そんなんや。僕に言わしたら、「小縣家」が中讃のうどんのルーツみたいな感じ。うまかったで。
昭和45年くらいに、僕は丸亀の建築事務所行っきょった。フォーククルセーダーズがヒットしかけた頃や。通町の琴参バスの駐車場の横くらいのとこ、今のドンキホーテがあるところに「四國うどん」いうセルフみたいな店ができた。今は善通寺にある四國うどんな。ダシかけて食べたらうまかったんやあ。仕事の途中に食べに行っきょったん。20円で(笑)。ほんで善通寺市の与北の方にも店出した。僕が大阪に出張した時にも、大阪の地下街に「四國うどん」があったんや。あれは初期の讃岐うどんのチェーン店や。うどんのチェーン店では一番の先駆者やったと思うわ。
その後に有名になったのが「長田うどん」やな。NHKで、宮田輝いうアナウンサーが歌手連れてきて地域の紹介して歌を歌ったりする「宮田輝のなんとかのど自慢」ていう番組があったんや。詳しくは知らんのやけど、ほんまは「小縣家」いくところだったんやけど、間違うて「長田うどん」行ったら、そこから「長田うどん」がめちゃめちゃ有名になっていったという話がある(笑)。「間違うて長田に行った」いうのはほんまかどうか知らんけど、あのころはそういう話をよう聞いたで。
●編集部より…映画『UDON』に出てきた「小学生が下校途中にうどんを食べる」というシーンが、これで事実であることが確定しました(笑)。というか、私も小学生の時(昭和40年頃)、下校途中に製麺屋でうどん玉を買って玉のままかじりながら帰っていました。「中讃のうどんのルーツは小縣家、チェーン店の走りは四國屋」という話は新証言。この「さぬきうどん未来遺産プロジェクト」は事実を確定しようという目的ではなく、「いろんな人の記憶を集めて讃岐うどんの過去のシーンを推測しよう」というのが狙いですから、「そういう認識を持っていた方がいるんだ」というふうに捉えていただければよろしいかと思います。