お母さんがもろぶたでうどんを伸ばしていた
生まれは観音寺の幸町の一心寺の前。うどんは母がずーっと打っちょりました。農家やきん、雨が降ったりして田んぼ行けん時に。一年中いつでも打って、ご飯の代わりにしよったな。
生地をゴザに敷いてな。カカトで順々順々、グルグルグルグル踏む。私でも誰でも踏んみょったわ。ほんで、お餅や取ったりする“もろぶた”いうんで伸ばすん。こっからこっちぐらい(約1.5m)の大きい分な。ほだきん長いうどんができるん。麺棒は太い、長さが1メーターぐらいのうどん専用。うどん屋さんがしよんと一緒じゃわ。
ようけ打つからな。羽釜で茹でて、玉にしてイカキ(竹で編んだザル)に並べよった。ほで親戚や皆にあげたりな。大阪に行っとった叔父さんが帰ってきたら「釜あげにしてくれ」って、生じょう油で食べるん。「うまい」言うてな。そら釜あげでサーっとしょう油かけたら美味しいわ。
うちで食べる分は、イリコとコブでダシ取ってな。それをうどんにかける。ほんで上に乗せるんはネギやら里芋でも何でも、そこらにある野菜。それか、卵だけかけたりな。自分が好きなようにしよった。美味しかったよ。
卵はニワトリがおったから、なんぼでもあるわ。よそは自分とこで取れた卵を「紀州屋」へ売りに行っきょったけどな。「ワカマツヤ」の横入ったとこで乾麺しよったやろ。卵も売んりょったんかどうか知らんけど、みんなあしこへ持って行っきょった。うちんくは5羽ぐらいしかおらんで、売りに行くほどは作ってなかったから。自分きで食べるのに、よそ持って行ってどうすんな。
ほんでニワトリが「コッカッコッカ」言うて卵産んだらな、お婆ちゃんがポーンと取ってな。産み立ての温かい分を、洗いもせんと針でポッと刺して、チュッチュッチュッと吸いよった。そなんしょったけん、昔でも88まで生きたんかいの(笑)。
打ち込みうどんはお婆ちゃんの担当だった
オカズがない時は打ち込みで。冬だったかいつだったか知らんけど、打ち込みするんはお婆ちゃんやったわ。それは踏んだりせんとの、まな板でするん。
打ち込みはな、私でもしよった。まな板はこのくらいの幅で短いでしょ? ほんだきん小っさいこれぐらいの玉したら、子供でもできるん。野菜から全部一緒に炊くしな。アゲや、野菜はあるもん全部入れての。そここへうどん入れて。ほんで、しょう油だったかな味噌だったかな、それも入れて。それをオカズにして食べよった。
家に2人で使う石臼があった
うどんに使う小麦は、もちろん家で作んりょった。裏作でなしに、お米と一緒ぐらいの時にできよったな。小麦は畑の一切れだけで、あとはみんな大麦な。
小麦はな、上市(上市商店街)の「いよや」とか、茂木町の米屋さんで粉にしてもらいよったわ。「岩倉(岩倉彩雲堂)」の斜め前に、大っきょいとこあったやろ。裏の土手のとこまでずーっとそうじゃった。今も蔵はあるけど、人間は死んで誰っちゃおらんの。
お団子の粉(こ)も、みなそこでしてもらいよったん。米はうちで洗てな、ムシロだったかゴザかで乾かして持って行っきょった。挽き代払わんと物々交換みたいなんもあったんな? そいなんはこっちでは聞いたことがない。
お団子の粉は、私や子供の時はまだうちで挽っきょったわ。よそは石臼を1人で回っしょったけど、うちは2人で押すんな。上から棒を吊っとってな、2人が並んでヨイショヨイショって押したら、ずーっと粉ができよったん。1人がちょっちょっと、お米を穴に入れるん。それも古い家を建て替えてからはもう、米屋さんで挽いてもらうようになったわ。けど小麦を家で挽っきょったいうんは、よそでは聞いたことないな。
お味噌も自分とこで作んりょった。お味噌にする大豆も作んりょったで、アゼのところにハゼ植えして。昔はアゼがコンクリートでなかったからな。ササゲ(小豆に似た豆・赤飯などに使われる)も植えとったわ。東京の方は、ササゲでなかったらいかんので、小豆は切腹するきん(皮が破れるので、切腹を連想して縁起が悪いとされた)。
けど、しょう油は「宮本」のしょう油屋が近いからそこへ買いに行っきょったん。「宮本」は上市な。あそこはしょう油蔵と酢の蔵とがあって、親方が酢の親方としょう油の親方と2人おったん。今は駐車場になっとるけど、大けな洋館があった。上女中とか下女中とかおったな。ほんで私やは「宮本」の新宅の子と友達やったから一緒にそこへ行て、子供じゃけん「探検じゃ」いうて方々を色々しよったら、2階に大っきょい太い蛇がおってな。大けなしょう油の樽がぐるりに並んどるとこ。まあビックリ仰天したわ。小学校の3年か4年じゃな(笑)。
半夏のキャッキャに効くうどん
特別な時にうどん食べるいうたら、半夏は必ず打っちょった。田植えしたら「キャッキャ、キャッキャする」いうてな。胸が焼けるいうて。ほんで田植えが済んだら、必ずおうどん打って食べよったわ。近所の人が手伝いに来るんでなしに、自分とこだけでな。ダシ出してな、汁かけ。ネギと必ず卵が入っとん。
年越しはうどんか蕎麦で、それも家で打っちょった。打ったら短こうなってな。けど、核家族になってからはそれもせんようになったわ。
それと、法事ではおうどんはいっぺんも出したことない。よそは出っしょるとこあったよ。田舎の方はな。けどうちは、ご飯出っしょったきん。うちは真宗(浄土真宗)、一向やきん。お葬式も出さんで。
お祭りもうどんは出んかったな。10月13日には甘酒と赤飯として、高屋の稲積さん(稲積神社)の方に配って案内に行くんな。「またお出でてつか(来てください)」言うて、配っていく。ほんだら向こうも春のお祭りに、うちにまた持ってきてくれるん。向ことこっちで祭りの時期が違うからな。
甘酒の麹は売りに来よったわ。八百屋にも卸して売んりょった。ほんで本番の日は、ジャコエビが入っとるバラ寿司な。あいなんが美味しかった。懐かしいけど、なかなかできんなあ。売んりょるバラ寿司とまた違うけんなあ。
給食に出る肉うどんが楽しみだった
小学校は南小学校。あの頃は「観音寺小学校」言いよった。給食は美味しかったよ。戦後すぐの頃やから、食べるもんがないきんな。脱脂粉乳は豚か何かにやる分だったそうやけどな、ドロリンとして美味しかったん。そのうち、ココアみたいなんも入れてくれよったで。缶にココアが入っとってな、入れてくれよったわ。それとコッペパンと。今食べたら美味しないやろけど、あの頃はご馳走でな。
たまにうどんも出よったで。肉うどんが。肉うどんいうたって、そなに肉やよーけ入っとらんけど。あの頃や肉やなかなか食べられんきんな。ほだきん給食楽しみだった。もう本当に食べるもんがのうてなあ。
お婆ちゃんとこっそり、かき玉うどんを食べていた
小学校から帰っても、お父さんやお母さんは田んぼ行っとるやろ。ほだけん子供は、みんな一心寺のお寺で遊んびょったんや。かけっこしたり、縄跳びしたり、木に登ったりしてな。
ほんで4時頃が来たらな、お婆ちゃんが「来い来い」言うて私呼ぶんや。「何?」言うて行ったらな、川原町(旧観音寺市川原町・現在は観音寺町に統合)に「小西」のお医者さんがあったやろ? 「四国服装」のとこ。今整体しよるやろ。あそこの横のとこにな、うどん屋さんがあったん。そこへ連れて行かよった。
ほだらな、お婆ちゃんが卵2つ袖に入れとんや。いつでも着物着とるきんな。見よったらうどん屋のオバサンが、湯がこんこんと沸っきょる釜のとこで、こやって丼温めてな。ほんで卵割って丼の底に入れて、ダシかけてくれよったん。釜玉やなしに、ダシが入っとったから卵かきうどんやな。
それをご飯前に、日に日に食べよったから大っきもなるわ(笑)。親は田んぼ行っとんのにな。お婆ちゃん自分だけ食べりゃええのに、私呼ぶんじゃ。で、食べたらまた、お寺行って遊んびょった。勉強もせんと(笑)。
高校時代はあまりうどんを食べなかった
それから観中(観音寺中学校)行って、一高(観音寺第一高校)行った(昭和20年代中盤)。一高に食堂があったかは知らん。お弁当やったから、食堂でや食べた事ないわ。朝は食べる間なしに、急いで走って行くやろ。ほんで2時間目ぐらいで早弁したら昼あたらんから(昼の弁当がないから)、購買部であんパン1つ買うて食べて(笑)。
学校から帰りには、うどんは食べたことないな。試験が終わったら、仲良し4人組で食堂に食べに行ったりはしよったけど。試験が3日ぐらいあるやろ。それが済んだら「もうやれやれやな」言うて食べに行って、それから映画館行っきょった。「メトロ」と「喜楽館」と映画館あったやろ。その前にあった食堂。アレ何いう名前だったんかな。
「富士紡」の工場長の娘さんと、私仲良しだってな。ほんでAランチおごってくれたん。AランチじゃBランチじゃいうてあって、私やランチやいうんそれで知ったわ。ほんでそこで食べて、「今日はどこのにするえ?」って、「琴弾館」やら「喜楽館」や、ほれから洋画の「丸美屋」な。多数決で決めてそこに見に行っきょった。
そこの食堂はうどんはなかった。洋食の店やったな。中華ソバは売んりょったけど。そこももうなしなった。もうなんちゃない。総代わりしたなあ。
高校出た後は東京の共立いう大学に行ったんやけど、連絡船のうどんが美味しかったな。連絡船乗ったら、アレ食べなんだらおられなんだん。美味しく感じるんかいな。行きも帰りも必ず食べよったわ。それと宇野着いたら必ず走んりょったな。走らんでもええのに(笑)。
風呂とうどん屋ととんぷくはセットだった
ほんで帰って来てすぐお見合いして結婚したけど、養子もろたけん、生まれた家でずーっとおる。ほだけん、ここら辺のことはよー知っとるよ。
昔はうどん屋は各部落に1軒ずつ皆あったん。柳町(商店街)だけでないがな。一心寺の裏の小原の餅屋の前に「青木」のうどん屋やろ。ほんで殿町は角の細川クリニックの反対側のとこにあった(恐らく「石部」)。
ほいで茂木町の風呂屋の横にもあったし、それから上市の方へ来よったら、盛福寺(盛福禅寺)の前にもあったやろ。ちっちゃかったけど、あそこは美味しいうどんしよったなあ。上市には、十日の呉服屋(十日屋呉服店)さんの前に「サンペイ」さんいうとこもあったん。それと「ワカマツヤ」から入ったとこに風呂屋があって、その前に「タクマ」さんがあった。ここらだけでもおうどん屋さんがよーけあったんで。
風呂屋の横には全部うどん屋があった。風邪引いたら風呂行ってな。ほんで温もってうどん食べて、そこで売んりょる“とんぷく”飲んですっこんで寝たら、結構治るんや。風呂とうどん屋ととんぷくがセット。お医者さんや行かんけん。
大阪からきたオジサンがやっていたふみ代
三架橋通りの「行天」の肉屋(行天食品)の横のとこににもうどん屋があったな。あそこも風呂屋の隣りやわ。「朝日湯」のな。そうそう「ふみ代(よ)」。大阪から来た、ちょっとデップリと肥えたオジサンが1人でしよった。お店はちっちゃあてな。あなな狭いところで、どしてうどん屋ができたんやろかと今でも不思議なん。
あそこのおうどんが美味しかって、食べによー行っきょった。あのダシが何とも言えんかったな。全然ここらのダシと違うん。大阪の人やったから、ちょっとええもん使いよったんやろか。イリコだけではあんだけの味は取れんし、粉ガツオ使とるにしてはダシが濁ってなかった。今思たら、ちょっとダシに甘いとこあったから、砂糖も入っとったん違うかな。ほんで、うどんもちょっと細いん。「ふみ代」の跡はオカズ売る店になっとったけど、大阪オッサン言いよったあのオジサン、お店閉めてからどこ帰ったんやろか。
観音寺市街はすっかり様変わりした
うどん屋だけでなしに、三架橋通りから川原町の方にもお店はずーっといっぱいあったんや。芸者さんもよーけおったしな。「生徳(旅館)」は、もう「ツンツルツンツル」いうて三味線ばっかりやったし。
検番(料理屋・芸者屋・待合を取りまとめていた事務所)も川原町に3軒あったんよ。第一検番が「キンリュウ」いう寿司屋のとこにあってな。もうちょっと向こうに第二検番、レンガ橋の元のとこに第三検番があったんや。
ほだきん芸者さんがよーけおったん。芸者さんや仲居さんがいっぱいやったきん、家がなんぼでも借り手があってな。うちも間貸ししよった。うちの方(幸町)や、そいな人ばっかりやったで。
うちの方も家あったけど、みんな田んぼだったきん。昔や「大西病院」のところからみな田んぼやったん。「黒川」の金魚屋いうて、一番大きい金魚屋が金魚も飼いよったけど、あとは田んぼばっかりやったわ。
一高の裏もみんな田んぼ。茂木町やいうたら、ほんまに寂しいとこやったのに。鍛冶屋ばっかりあっての。あの辺で藤原いうたらみんな鍛冶屋で、田んぼと鍛冶屋で食べよった。今みたいに発展してきたんは、市役所が行って道路が付いてからや。
新橋も後からできたんで。高屋の方や仁尾から来るきん。財田川や、三架橋とレンガ橋(琴弾橋)と大小路橋と染川橋としかなかったわ。大けなんは三架橋ぐらいで、その次は染川橋が大っきょいぐらいで「どんどん橋」言よった。大小路橋や、今やけっこい(きれいな)橋できとるけどな。この位の船の分のポロの板あるやろ。アレを順々組んだ狭い橋だったん。端はなんちゃないんの。
私、お父さんの従兄弟がおったきん、高屋に行っとってな。私1人、大小路橋渡ってもんて(帰って)来よったら大風が吹いてな。子供が傘持っとったきん、しゅへっと飛ばされて、ふわーっいうて下へ降りたん。水がないとこにな。ほんで土手に上がって行て帰ったことある。いやーもうホンマに、絵本に描いとるようやったで。
財田川も昔は大水がよー出てな。うちの方やって、土手が切れたいうたら街中水浸しや。隣のオジサンが助役さんやってな。泥水が出たらボートで迎えに来てな。うちの前をボートで通って役場行っきょったんじゃわ。それを2階の小窓から見てな。子供じゃけん「オッサンええな」言よったん(笑)。
大水の時にいっぺん、染川橋までお母さんと見に行ったんじゃ。ほんだらタンスや牛や馬が流れて来てビックリしたわ。でもダムができてから、水は出んよーになった。土手もキレイにしたからな。
昔はそこら辺に八百屋もよーけあって、セイロでうどん屋から玉を入れよったな。けどもう、うどん屋も八百屋もなんちゃない。柳町やって、あんだけ賑やかなかったのに跡形もないわ。上市やって道はキレイになったけど、みな総代わりしたんや。ええとこの子は大学やるけんな。教育するからみんな出て行った。家ってずっと続かんもんやの。ええとこは皆なくなったな。
●昭和20~30年代のうどんのエピソードと観音寺市街地の様子がかなりたくさん出てきました。おそらくどこかの資料館には昔の市内の資料が残っているのでしょうが、実際に見てきたお年寄りの話はやっぱりいきいきしていますね。ちなみに、昭和27年に出された壺井栄の『二十四の瞳』の中に、「大石先生、うどんやかぜ薬というのがあるでしょ、あれもらったら?」というセリフが出てきます。昔は「風邪を引いたらうどんを食べると治る」と言われていたことから名づけられたかぜ薬だそうですが、風呂とうどんとかぜ薬はセットだったんですね。