うどん作りは自然に覚えるものだった
ウチの家は高松の栗林。旧市内や(「旧市内」は大正10年11月1日に高松市が香川郡栗林村を編入した時点での市域。要するに高松市の中心市域です)。元は栗林の集会場の所にあった「ひかり製紙」という製紙工場や。戦後は、栗林の幼稚園の横で料亭をやりよった。そこは空襲で焼けなんだから。その後、料亭から給食を始めた。お客さんは、電力や昔の専売公社や百十四銀行やの大手で、今の中央給食と一緒な事をやっりょった。そういうので食いもん屋には関係あったけど、うどんを直接どうこうするいうのはなかったな。
昔はみんな、家でうどんやりよったで。みんな、なんちゃうどん打つ専門家でないけど、ウチのオヤジもやりよった。各家庭で皆、麺棒と板と持っとるが。大阪で言うたら、どこの家でもたこ焼きの機械持っとんと一緒で(笑)。うどんの打ち方は親が「お前、教えてやるが」いうんじゃなしに、いつの間にやら知らん間にアレしてしまうっていうのがそのやり方だった。うどん打って実践練習するなんか、とんでもない話で。
家で食べよったんは「かけうどん」。ナルトときつねが入っとる程度で、非常に素朴やった。それか「打ち込みうどん」。晩ご飯に、うどんを切ったヤツをグツグツグツグツいうん中へ湯がきもせんと入れる。粉が入っとるからもうドロドロんなって、団子になるみたいな感じので食べる。それと「ドジョウうどん」いうんが東の方であったけど、それは食べた事ないわ。まあ、やれ天ぷらやかき揚げやなんとかじゃかんとかじゃいう今頃のバリエーション、あななんはなかったわ。元はそゆことで、確かに生活には馴染んでおったし。
オヤジの田舎行ったら、「あーよう帰って来た」言うて、お婆はんが自分の家んとこで必ずうどんしてくれよった。すごい小さい時やったけど覚えとるわ。
うどんはハレの日に欠かせなかった
昔は結婚とか法事いうんは平安閣(結婚式場)みたいなとこでやるんでなしに、“お客”いうて自分の家でやっとったんや。やっとったら近所の人がみんな来て、うどん打ったりなんとかいうて手伝いながら食べよったな。結婚であれ葬式であれ、冠婚葬祭や何かの会合には、何かにつけてうどんは出よった。全部うどんがついて回る。うどんは米の代用食でデイリーに食べよったけど、同時にハレの食品だったんかも知れんな。
出てくるうどんは「かけ」だった。「つけ」やいうんはあるかいな。そいなんは、ずーっと後へ下がって来てからや。夏なんかに「冷やしうどん」いうてつけるぐらいがあったぐらいで。うちは浄土真宗やけど、法事は寿司とセットやったな。
あと、地域によっては、うどんを浅い皿に入れるいうのを聞いた事があるけど、僕の生活実感の中ではなかった。
昔のメリケン粉は今のと違ごて全粒粉やったから、熟成期間がなしにいけたっていうのを聞いた事がある。寝かさんでもええから、そのまますぐ家庭で打っちょったんやろな。
戦後すぐはうどんを作るどころではなかった
戦争の昭和20年頃は、僕は7つか8つやろ。その頃は物資が不足して食糧難が続いたから、しばらくはうどんじゃいう訳にはいかなんだんや。メリコン粉を錬ってすいとんや。あれから始まったん。
今の田町の交番の横に「イケダヤ」っていう3階建てのビルが焼け残ってあったんや。それを分校みたいにしとって、昭和23~24年頃、そこへ通いよったんや。それで「明日から給食がある」いうてな。「給食ってどんなかの」言いよったら、なんか上級の人が「集合!」言うてどっか行った。何しに行ったかいうたら、その辺で食べられる草を探してきた。野菜と違うんやんか。草や、雑草や。それがすいとんみたいなんに、ちょっと入って終わり。
それに“ぬかパン”とか。ぬかが本体で、それを錬って焼くんや。ぬかで作ったパンは食えんで。女の子が泣いて「食べん」ちゅうんや。不味くて。で、そのずーっと後に脱脂粉乳が出てきて。アレも不味かったって言われよるけど、僕らは「うわー、こんな牛乳があるんや」いうてな。うどんが贅沢いうんではないけど、非常にアレやったわ。
食堂の延びたかやくうどんが普通だった
そいで少しずつ世の中が落ち着いてきだして、大衆食堂の中に「うどん」いうメニューが出てきた。メインにうどんがあるけど、「うどん屋です」という看板ではない。あったんは「かやくうどん」や。細ネギとカマボコが入っとって。お寿司やちらしもあったり、おでん売っとったり、他のもんもチョロチョロあって、そんなんでセットで食うたりしょったと思うで。今のスタイルとは違う。ホンマに細々した小さい食堂いうのが、あちこちあった。
そういうので、戦後すぐにはうどん屋で自分とこで手打ちいうのはなかった。必ず製麺所が打って、セイロで玉を持って来て、それで湯がいて出すいうスタイルが普通や。いうたら時間30分以上経っとるやんか。延びてしもて。だからもう、コシがあって打ちだてシコシコやどやこやいう感覚は無いで。あいなんは後の話や。
天ぷらなにや、そんなバリエーションもないで。エビじゃの何とかじゃの、トッピングのバリエーションやいうんは、戦後から少しいってもなかった。
近所の店いうたら、広場に「タナカ」なんとかいう食堂があったな。ほんまに小さい、「大衆食堂」ぐらいしか書いとらんとこ。今、あるかどうか知らんで。
アズマヤはぜんざいの屋台から始まった
あ、そいからな、戦後すぐ「アズマヤ」いうんが一番や言いよった。アレは戦後に始めたんやけど、何で売れたかいうたら、ぜんざいや。そのぜんざいも、欠けた茶碗で食べさせよった。長い台と長椅子でな。茶碗は焼け野原から拾てきたんと違うかな。1つ1つ一緒やなかったし。そこで「屋台で座ってぜんざいを食う」いうんが大ウケしたんや。色んな物が不足しとる時に「甘いもんが食べられる」いうてな。
ほいでそれがますますアレになって喫茶店始めたけど、その頃からうどんも一緒にやっとった。今でも喫茶店でうどんが食べられるのがごっつ珍しい言われよるけど、あそこのうどんは古いんで。「かな泉」どころの話でない。僕も実際よう食べよったから。
ほんで、ソフトクリームとうどんのセットもできた。その頃は喫茶店いうたらあそこともうなんぼかしゃん(何軒か)しかなかったから、「アズマヤ」はパイオニアです。喫茶店でうどんとかいうの、全然関連性がないように思うけど、一緒に発達してきとるんや。
昔の高松の思い出
昔は高松市内に映画館がよーけあって、その近くには食堂が大概あった。戦後すぐの映画館いうんは三越(みつごし)やからな。高松空襲があったやろ。「明日空襲がある」いう噂が流れてきてな、リヤカーに乗せられて今の飛行機場がある辺りの親戚の家まで逃げたんや。寝よったら朝の3時か4時頃にたたき起こされてな。上をB29がカラスみたいに、こなんなっとる訳や。ほんで市内は全部燃えてしもてな。栗林から見たら見えるんは女木島と三越ぐらいやった。そう、三越は焼け残ったけん、そこで映画やっとったん。デパートの中で映画。
映画館はそれから常磐街に移ったんやね。常磐街にはもうよっけあった。田町の角っこは「南座」。「常磐座」やなんとかいうんもあった。ほいから中央通りにはなんとかいう洋画があって、ライオン通に「ライオン館」があって、とにかくよけあったで。娯楽はそんなんしかなかったから。
商店街では“いちろくデー”いうのもしよった。1と6のつく日に“いちろくデー”いうて、南新町から丸亀町まで売り出しがあるん。そういうイベントがあって、珍しくてみんな行っきょったんや。今、70なんぼの人は、みな知っとるで。
そういえばアンタ、テレビ初公開は栗林公園だったわ。栗林公園の中を右に入ったとこに、カマのなんとかいうんがあるやろが。あそこに高松美術館いうんがあったん。美術館から出たら庭にテラスがあってな、そこの外からみんながこやって小っさーいやつ(テレビ)を観たわ。雨が降ってきたのに「うーわ、なんか映っとるで」いうて(笑)。それが昭和27年か。
そうそう、今の中央公園が中央球場だった時に、博覧会もあったわ。球場の擂り鉢みたいなん中でしよった。
食堂からうどん屋への変革期
今みたいに“うどん屋”って看板出して、自分とこで打つ店ができたんはいつ頃やろか。僕は20代の後ろの方からずーっと40なんぼまで大阪でおって、香川におらなんだんや。それで帰って来たら、もう「かな泉」があった。「あ、うどんか、美味いやないか。こんなん、大阪にもないわの」いうて。だから、僕が香川におらん間が変革期やったんやろな。その辺りでうどん屋さんが、どなんしたかは知らんわ。
手打ちで打ちながら「いらっしゃい」言ううどん屋の専門店を始めたんは、「かな泉」からと違うん。商業的に全国に香川からうどんを発送するんを始めたんも、あそこやったと思う。讃岐のみんなが食べよるやつを全国へ送ろういう、発信の元になった。それ以前には、讃岐のうどんを送ってやいう発想なんかないわ。
そもそも“うどん屋”もなかったけど、“讃岐うどん”いうんもなかった。それまではただのうどんや。讃岐うどんいうのは、後で作ったコマーシャル用の名前。アレも「かな泉」ぐらいと違うんかな。
●編集部より…讃岐うどんの歴史における「かな泉」の功績が偉大であったことを、改めて思い出させていただきました。加えて、高松のうどんの記憶にあちこちで出てくる「アズマヤ」のインパクト。さらに戦後すぐの三越で映画をやっていたこと、栗林公園の街頭テレビ、高松中央球場で行われた博覧会等々、これぞ戦後~昭和の記憶。楽しい証言、ありがとうございました。