農協で交換した小麦粉で打ち込みうどん
生まれは豊中町(旧三豊郡豊中町・現在は三豊市に合併)の農家で、観音寺市にお嫁に来たとこも農家やった。
昔は家でおうどん打っちょったね。うちは母親が練って丸めてな。うまいことこうやって、伸ばっしょった。アタシもあいなんしてマネはしたきんできるけど、もうあんまり打たんな。伸ばす棒や板もあった。棒は桜の木の長い枝をな、ナニしとん。今や昔の家つぶってしもて、もう昔のもんはみな捨てて済んだけどな。
打ち込みいうんかな。アレをよー食べらしてくれよった。おうどんは塩が入ってない、ちょっと幅広いんな。またアレ、粘りがあるけん美味しかったんじゃがな。大根やニンジンやが入っとってな。打ち込みはやっぱり冬やな、夏はあんまりしなかった。
夏も何かがあったらおうどんはしよったで。半夏やあいな時にな。半夏はやっぱり、みなおうどん持て行て食べよらいな。田植えを近所の人に手伝てもろて。半夏におうどんは付きもんやった。半夏のおうどんは、ただもうかけみたいなん。カマボコがちょっと乗ってるぐらいの。
ダシはイリコでね。それとしょう油だけやった。今頃は調味料があって世話ないけど、昔は「イリコのアレ美味しい」言うてな。今でもお参りに行たら、イリコは伊吹からようもらうんや。粉(小麦粉)は、農協へ小麦持って行て交換や。家ではあんまり挽かん。小麦持って行たら、その時間にすぐ粉くれよった。今の話はまだ子供時分。14、5位かな。終戦後やわ。
戦争中もうどんは食べていた
ほだけど、アタシやも戦争のアレ(記憶)はあるん。防空壕入(い)ったりしよったし。アタシの里にごー、飛行機がパーっと降りてきてな。貨物列車がパッパッパッパーっと撃たれて。それをちょうど学校の窓から見よったん。防空頭巾被って低にしてな。後でそこへ行って弾拾た。後は、桑の木ってあるやろ。桑の葉をキレイに剥いでな、それを向こうへ送んりょったん。兵隊さんの服作るんにな。
でも、戦時中でもおうどんは食べよった。農家やけん、小麦作んりょったけんな。あの時の打ち込みは、おネギや春菊やあんなん入れてな。けど食べるもんがなかったきん、美味しかった。そう言うたら、戦争中は粉はどないしよったんやろか。まだ農協なかったきんな。きな粉はごー、家に丸い石の挽き臼があってな。それをクルクル回して豆挽っきょったけど、小麦もアレやったんやろか。あんまり覚えてないな。食べる方は覚えとるけど(笑)。
学校で出るんはスイトン。普段はイモや豆やご飯の中へ入れて炊いてな。あんなんしか食べてないがな。ほんで練り餅いうて、イモと何か練ってな。アレが美味しかったんや。サツマイモは甘味があるからなあ。うちは兄弟6人おったきん、グスグズしよったらあたらん(笑)。みんな食べらいなあ。もう何食べても美味しかった。今やもう食べられんけどなあ。
今、本山(三豊市豊中町本山)に「ゆめタウン」があるやろ。あのすぐ近くに学校があったん。「ゆめタウン」は体育館の跡やわ。豊中町は、桑山と笠田と比地大と本山と上高野な。5ヶ村が合併したんや。そやけど学校は本山にしかなかったきん、みんな毎日歩いて行っきょったん。自転車にも乗らんとな。戦後は給食もあったけど、イモや大根や切って、菜っ葉やあいなん入れた分でな。おうどんやは出んかった。
家以外で、初めておうどん食べたんはいつやろか。近所には八百屋さんはあったけど、食堂はあんまりなかったし。たいがい家でな。高瀬(三豊市高瀬町)の駅からちょっと東の方へ寄ったとこに「松竹座」いう映画館があって、その近くにちっちゃい食堂はあったな。けどうどん屋いうんはなかった。それも食べたことないけどな。
法事のうどんはぶっかけうどんだった
ほんで昭和32年に、観音寺の幸町(観音寺市幸町)に嫁に来たん。一心寺のお寺の辺。お嫁に来た家でも、お婆ちゃんがおうどんしよった。お婆ちゃんは年中、絶えず打っちょったな。粉は買って来てたように思うけど、詳しくは知らんわ。
そうそう、法事にはおうどん食べよった。宵にはおうどん出よったで。うちは一向宗で、お寺さん…西蓮寺の人が、何やらおうどん好きなかったんやわ。お勤めが終わったらお寺さんにおうどんあげるんやけど、いつも聞かれるん。「残りがあったらそれいただく」言うてね。あの人ももう亡くなったな。
法事のおうどんは、普通のお汁が付いたやつ。お汁はおしょう油がちょっと濃い、湯だめでつけるような、ぶっかけみたいなあんなん。昔はぶっかけや言よらんかったけどな。後はネギと赤いん(カマボコ)が付いとったぐらい。法事やあんなんやは、そんなおご馳走もなかったよ。やっぱり、イモや大根、豆ばっかしや。
忙しから、おうどんは打たんとうどん屋で買って来よったわい。セイロ持って行ってな。近所にうどん屋はなかったんやけど、アレどこのうどんやったやろか。お義母さんが買って来よったきん、知らん。
祭りの食事は豪勢だった
お婆ちゃんが絶えず打っちょったいうても、うどんはそなに毎日食べんかったで。お祭りやはうどんしよらんかったしな。お祭りに案内したら、親戚の人がみな来るやろ。ほだきん仕出しを魚屋さんから取ってな。仮屋の「マツモト」さんに仕出し頼んだら、作って持ってきてくれよったん。
ほんで祭りいうたら天ぷらな。イモやゴボウやあんなん入れて。ほんでこう、母親がイカキ(竹で編んだザル)に積み上げてな。小麦粉の中に色粉を溶いて混ぜて、ちょっと塩とお砂糖も入れよった。サツマイモは黄色で、ゴボウやあいなんにはちょっと青い色。種類によって色が違うん。イモでも地芋は違うんやったわ。
ああ、お寿司もしよったな。バラ寿司やちらしやにエビ入れて。ズイキいうてあるやろ、里芋の茎。アレの茎の青いとこを皮剥いて干してな、割って切って。カンピョウの代わりにしよったん。アレは芽赤でなかったらいかんの。赤イモのズイキで。味が全然違うんで。今でも売んりょるけど、ものすご高いな。
それと、大けな瓶に甘酒作ってな。一升瓶に入れて、兄弟のとこ案内に行っきょった。おこわと赤飯と一緒にな。室本(観音寺市室本町)から麹買って来て。ほんで冷めたらいかんけん、瓶に布団を着せて温めて。美味しかったんや、甘酒な。
婚礼のおすそ分けと自家製のおやつ
ほだけん、昔やいうたら何かあったらお寿司やあいなん家でしよってな。それが楽しみやった。婚礼があったらごー、みなお膳や持って帰って隣近所5、6軒に配んりょった。リンゴからカマボコから、みんな1cm位に細ーに切ってお皿に入れてな。おすそ分けしよった。観音寺の婚礼に付きもんのおいりも一緒にな。そういうたら、婚礼にはおうどん出んかったな。
おいりいうたら、あいなん家でもしよったわ。お餅ついたんをこの位(1cm位)に切ってな、ほんでそれ炒るん。仁尾の方のごー、ヨシヅカにサトウキビがあるやろ。それを絞った「粘り」を混ぜてな。そいなおやつをよー母親が作ってくれたん。よいよー美味しかったわ。サトウキビの粘りは甘ーてな。家置いとったら、こやってちょっと指でつまんでなめよったん(笑)。固まっとってな、食べやすいんや。
飴も何かしよったな。カツオのなんとかいう。今売っとるやろ、固いやつ。アレも自分とこでしよった。棒みたいに長ーに延ばして切ってな。みんな自分とこで自家製で作んりょったなあ。食べるとこもなかったけん、みな家でしよったわな。
●編集部より…篠原君のレポートは、いつものように「方言の記録」も兼ねておばあちゃんのしゃべり言葉のまんまです(あまりに読みにくいところはほんの少し直して)。豊中町の戦時中の食生活の記憶も頂きました。あと、色のついた天ぷら(野菜の揚げ物)で、サツマイモは黄色、ゴボウは青だったと。詫間町でも「ゴボウは青だった」という証言がありました(vol:86)。