農協に小麦を預けて麺にしてもらっていた
小学生の頃(昭和20年代後半)、お昼ご飯の前になると、母親からよく「うどんを作ってこい」と言われた。おつかいで行かされた場所は、農協。農協には、家で作った小麦を大量に預けていていた。その小麦で農協は製粉し、うどん玉を作ってくれたのだ。
製麺機を操作していたおじさんの睫毛に、うどん粉がのっていた
製粉する機械は印象にない。多分、一般の人には目につかない場所に置かれてあったのだろう。ただ、うどんを作っていた機械はよく憶えている。横幅2メートル近い大きさで、高さも大人の背丈くらいはあった。上から小麦粉と塩水を流し込むと、ほどなくして下からゆっくりと、ところてんのように麺が出てくる。途中、ゴロゴロと音を立てながら機械の中にあるプロペラが回転し、小麦粉と塩水が馴染み、生地になっていく。そして、麺が30センチくらい〝ニョロ~ン〟と飛び出すと、農協のおじさんはそれを玉になるように丸く束ね、機械に付いている歯に引っ掛けて切断した。それは器用で、慣れた手つきだった。
機械が置かれていたのは土間のようなところで、当たり前だがかなり粉っぽかった。機械も粉まみれで、うどんを作る毎に掃除なんてしない。小麦粉や生地のカスが残ったままで、次々に作業する。機械を操作するおじさんの睫毛にはうっすらと小麦粉がのり、まばたきをするとパラパラと落ちそうだった。
決して広くもない場所だったが、そこにはいつもうどんを買い求める大人たちが集まっていた。用もないのに足を運んだ人もいただろう。うどんが出来るまでの間に、さまざまな話題の会話を楽しむ社交場だったのだ。当時の三谷町に、そんな社交場は他にはなかった。
小学生だった自分が積極的に大人の会話に参加することはなかったが、家にはテレビや新聞がない時代。見聞を広める貴重な機会になったのは間違いない。今でも忘れられない、大好きなおつかいだった。
●編集部より…昭和20年代の農協の「全自動うどん製造機」の様子が、かなり詳しく出てきました。やっぱり、どう見ても今の品質高き讃岐うどんとは違ってたみたいで…(笑)。