香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

坂出市江尻町・昭和38年生まれの男性の証言

子供の頃はしょっちゅう製麺所に玉を買いに行かされよった

(取材・文:

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  • vol: 24
  • 2015.07.10

子供の頃はしょっちゅう製麺所に玉を買いに行かされよった

(昭和37年生まれの男性) 昔、オレらが子供んころ(昭和45年頃)は日曜の昼いうたら大概うどんやったわ。うどん屋でのうて、玉打ちよる所へ買いに行きよったな。初めのころよう行きよったんは横津にあった所や。横津川のそばで、向かい側が丸二運送で、床屋と島本食堂に挟まれた道にあったわ。線路が新しくなる前は道路が線路の下を潜りよったから坂道になっとるやろ。横津からその道に入って、下り坂になる手前にあったんや。親に買ってこい言われて、そこで玉の数言うたら新聞紙にくるんで渡してくれるんや。自転車のかごにうどん玉載せて家帰りよったわ。出来立てやったら醤油かけてもうまいけん言うて、いつも味の素かけたしょうゆうどん食いよったな。あのころは家に鰹節削りがあって、オレも削りたいけんやってみるんやけど、ガッガッいう音ばかりでほとんど粉というか粒みたいなもんが出来よったわ。それかけてうどん食うたら口の中で鰹節がささるみたいな、うどん飲み込んでも鰹節だけ残っとるんや。

(昭和38年生まれの男性) オレは子供の時(同じく昭和45年頃)は家が京町やったから、室町の電話局のそばにある「上原(製麺所)」に買いに行かされよったわ。広い道通らんで行けるから危のうないやろ言われて。横津の店は行ってないわ。彦江とは違うんやろ?

(昭和37年生まれの男性) それがわからんのや。彦江の場所はわかるんやけど。横津言うても道から離れとるから川のそばの店が移転して最後までしよった場所になったんか別の店なんか、お前やったら知っとるか思うて。

(昭和38年生まれの男性) 上原で玉買えよったから、彦江行きよらんかったからの。

(昭和37年生まれの男性) ほんで、オレんとこは最初は横津の店行きよったけど、しばらくしたら谷町に「大西のうどん屋(製麺所)」が出来て、歩いて行けるけんそこで買いよったわ。鳥締める工場がある道で、YKKの社宅過ぎて20メートルくらい行った所にあるんや。そこは、どぶ川しとったから道広かったけん。そこでうどん打ちよる横に、そこのばあちゃんが小さな食料品店しよったから、店の中にうどん置いとる時は、数言うたら玉入れてくれるけど、切れとる時は直接打ちよる所行ってもらいに行きよったわ。新聞紙で包んでビニールに入れてくれるんやけど、よう考えたらビニール袋使うんやったら、新聞紙いらんやん(笑)。そのまま玉入れたらええんちゃうか思うけど。どっちの店も今はのうなったけどな。

(昭和38年生まれの男性) どこも閉めてしもうとるけんのう。

昭和50年代の坂出は賑やかだった

(昭和37年生まれの男性) 横津の店はまだ建物は残っとるで。坂道も下り坂のスタート部分だけ少し残っとる。知らんやつが通ったらただの段差にしか思わんわ。

(昭和38年生まれの男性) 坂出も瀬戸大橋が出来て線路が高架になってから、道も変わったけんな。線路やって、前は番の州に向かう貨物専用のがあったけんな。昭栄堂の餅屋過ぎて、ミネシゲと向かい側が魚金のかまぼこ屋の横に線路があったやろ。今は草生えとるけど。

(昭和37年生まれの男性) そうやな、めったに踏切閉まらなんだけど。あの東小(東部小学校)の前の通りはにぎやかやったもんな。横津川越えてから商店街が始まっとった。

(昭和38年生まれの男性) 商店街言うても、アーケードが始まるんは一里松と秋山の楽器屋からの京町商店街やからな。

(昭和37年生まれの男性) 一里松はそこがメインの店で、東小の正門までの直線に何店舗もあったやろ。セメントやでかいビニール管に風呂桶やブロックとか商品を店ごとに分けてたん覚えとるわ。シャッター半分閉めとったけど。今のジョイやダイキみたいなもんやったんや。

(昭和38年生まれの男性) そなにきれいな店やなかったで。ごちゃごちゃいろんな物置いとったやろ。広い店やったけど、奥に置いとったタンスは何年も置いたままやで。店内の明かりは全部ついてないし、演歌流れとるし、じいちゃん愛想なかったし(笑)。今は一里松の場所は歯医者と駐車場で、秋山の楽器屋も駐車場やし。何よりアーケードがのうなったんやから。道幅広げたから、最近まであった道挟んだバイク屋もなしなったしな。山家鮮魚店の横にあった古い本屋も、今は信用金庫になっとるやろ。

(昭和37年生まれの男性) サティ(ニチイ→サティ→イオン)の正面があの通りから駅前に変わってから、まだましな方やった人通りも減ってしもて、あのあたりの店もだんだん閉めだしたもんな。バスやって前は琴参バスが高松~琴平まであったから、あの通りでも横津と東小の西門前にバス停まりよったやろ。駅前でぐるっと回って。本数もそこそこあったし、横津は末沢薬局の横にある阿河のタバコ屋がバス停やって、東小のそばにあるバス停は今聖母眼科がある所に、サンプラザトミーがあって隣に農機具と米も売っとった思うけど、その店で乗車券売りよったわ。

(昭和38年生まれの男性) オレはあんまり乗ったことないから詳しいことは知らんけど、そのころより車も通る人も減ったんは確かや。

(昭和37年生まれの男性) オレらが小学校や中学あたりまではその直線に大きなスーパーが3軒あったんやから、正門の隣にショッピングセンターあきやまがあって、東小の西門の斜め向かいにトミーがあって、元町商店街のそばにニチイがあった。今でもあるのはイオンだけやけど。

(昭和38年生まれの男性) あきやまは今コーポランス秋山いうマンションやの。

(昭和37年生まれの男性) スーパーいうたら、あのころでも今みたいにうどんは売っとったんかの? まるで記憶ないんやけど。

(昭和38年生まれの男性) 1玉ずつ包装されたんはなかったやろ。セイロに玉並べたやつやったらあったんかもしれんけど。うちんとこはスーパーでうどん買った記憶はないわ。やけど、あきやまもトミーも上原がうどん卸しよったんちゃうん。どっちもめちゃ近いんやけん。

(昭和37年生まれの男性) オレもスーパーでやうどん買わなんだ思うわ。

(昭和38年生まれの男性) オレらの子供の時に食ったうどんは新聞紙でくるんだうどんやったんやけん。今みたいに小奇麗に置いとるもんちゃうかったわ。

(昭和37年生まれの男性) 出来立ての玉買いに行きよったから、時間たったもんとの味の違いはわかっとったんやな。

(昭和38年生まれの男性) 駄菓子屋がどこにあったいうんやったらなんぼか覚えとるけど、うどんになると子供には親に言われて買いに行った店しか知らんけんの。

(昭和37年生まれの男性) ちょっとしか知らんうどん屋も、今思えば名店やったんやな。

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