法事のお膳で出ていたうどん鉢は高さが低く、それ専用の器だった
打ち込みうどんは小さい頃によく食べました。作ってくれたのは祖父です。「釜屋」と呼んでいた台所の床は漆黒色をした木の板の間でしたが、作る時はその上に茶色の台を置き、そこでうどんを打ちました。台は畳1枚分を優に超えるほどの大きさがあったでしょうか。大きさもさることながら、麺棒や専用の包丁を手に、生地と対峙する祖父の雰囲気にも圧倒されたものです。孫である自分たちも遊び感覚で一緒に作りたかったのですが、ある程度の仕上がりに達するまでは決して生地に触れさせてくれませんでした。
そんな厳かな祖父のうどんとは別に、店で買ってきた麺を口にするときもありました。それは(農家だった家の)田畑仕事が忙しかった時や、祥月命日・法事などで大勢の人が家に集まった「お客」の時です。食べ方は打ち込みではなく、かけやざる、湯だめといったシンプルなもの。お客のお膳に混じるうどん玉が入った丼鉢の高さが低く、それ専用だったことも記憶しています。丼鉢には、季節によってお湯や水が浸されていることもありました。
製粉もしていたが、作る麺の特徴はまったく違った製麺所と農協
麺は当時、川島(高松市)にあった製粉もしてくれる製麺所から買っていました。店には家で収穫した小麦を一袋・30kg分を預けていたのですが、それをうどん玉に加工してもらっていたのです。小麦の量の管理は帳面で行い、うどん玉をもらいに行くと数字を差し引きされました。店の手間賃もお金ではなく、もちろん小麦です。農家には大助かりでした。
三谷(高松市)の農協でも麺を手に入れることはできましたが、それは機械で仕上げた乾麺。素麺を作っている機械を利用し、麺を単に太くしただけのものです。製麺所の手打ち生麺に対して美味しさの差は歴然で、農協で買い求めることはめったにありませんでした。
ちなみに、その川島の製麺所は、店内でうどんを食べることはできませんでした。昔の三谷にうどんが食べられる店はなかったですね。小学校の給食にも一切、出たことはありません。
●編集部より…またまた「丼より浅い器」で食べるうどんの話が出てきた。これ、そろそろ「昔の讃岐うどんの器」として復活させてもいいんじゃないかと。あと、農協の乾麺より製麺所のうどんの方が断然うまかったと(笑)。