打ち込みのうどんは叔母の家からもらっていた
私の実家はね、流岡(観音寺市流岡町)の加麻良(かまら)神社にあるん。皆からは「丸山さん」て言われとって、叔父がそこの神主。親父は高校の先生で、最後の学校は観一(観音寺第一高校)だったかな。
家でのうどんはね、いわゆる打ち込みですね。何もかもごったに入れて。で、何ていうたらええのかね、太いん。ドジョウのような、そういううどんでした。
うどんは打つとゆう程のもんではないな。うちは百姓しとらんから。大野原地区に母親の姉がおってね、そっから麺の形でもろてきょった。いくらでもというたらアレやけど。うどんでなしに、小麦粉を団子にして…落とし団子っていうんかの、そんなんもしてましたね。
ダシはイリコで具は色々。時の物何でもです。根菜もあったですよ。ニンジンはもちろん、里芋なんかが入っとる時もあった。田んぼはしよらなんだけど菜園があったんで、そこで獲れるような野菜は色々ありました。
打ち込みは寒い時の方が多かったけど、冬だけではなかったね。別に、ハレのうどんとかそういうような、きちんとやるもんではなかった。
母親の実家は農家で小麦をしよったらしい。戦後のああいう時は配給が色々あって、赤い小麦の粉とかああいうのも食べたけど、母親の実家や姉の家もあったからね。農家との繋がりがあったから、結果的にはひもじい思いいうんは結局しなかった。そういうこと。
財田川の恵みで食糧難を乗り切った
それと、財田川の川の恵みもありました。叔父がね、面白いんですよ。神主しながら、河原で網を引くんです。この辺りでは“てんぐり”言うてね。皆で河原で引いて、川魚を獲る。フナや鯉、まあウナギも色々おりましたわ。この辺りで“はね”いうんやけどね。石垣があるんですよ。そこで潜ってこう見たら、向こうの隅の方でね、ウナギがこうやっとんですよ。水が澄んどるから見えるんですよ。そういう時代です。
川は昭和24、5年位まではキレイなかったね。鮎も毛針で立て続けに釣れて、私、1時間で60くらい釣りました。友釣りとか、そんな高級なもんでないですよ。濁った時に毛針で。あれはね、昭和20年頃ですね。私が釣りをしたのが中学校2年位までだから、昭和22年位までやね。川でなんぼでも魚が獲れたっちゅうのは。
今はいないけど、川タナゴもおりましたよ。絶滅危惧種の。タナゴはこの辺りの方言ではね、“いがんちょ”言うんですよ。砂ドジョウもなんぼでも釣れてました。ドジョウも食べたけど、この辺りではうどんには入れてないね。川魚はうどんには入れてない。
4月くらいやったら、下に沈んどる山の石をスーッとこう開けるでしょ。開けたら中に手長エビがおる。けどカニはほとんどいなかったね。あるいはハゼ。狸のような黒いハゼが確実におった。
そうそうそう。かなくま橋のちょっと上に安藤さんいう人がおってね。元幕内力士だったか幕下力士だったか、そこの所は定かでないんやけど、力持ちのおじさんがおったんですよ。その人、一人でグアーって網引くんです。片っぽの網ね。「おいお前、頼むわ向こう」って。
だからね、この辺りの百姓してない子供でも、いわゆる飢餓は多分なかっただろうな。極端に言うたら、川に行ったら何か獲れよったから。それから戦時中は、配給で牛の腸やあーいうのも来よりましたから、タンパクは結構取れとったやろね。
ところがその川の幸も、私の場合やったらお母さんが嫌いで。獲ったら「川魚は食べない、捨てる」ってね。捨てられるとか、そういう運命にはあったけどね(笑)。
それと昭和30年代に入ってからだろうかなあ。悪い奴がおってな。青酸カリじゃなかろうけど、川にそういうような薬を放り込んだり、家から電気引いて川に流して魚獲るいうのがありましたね。電気流したらパッパーっとすぐ飛んで、魚が出てくるんですよ。よう手が感電せんかったもんやと思う。
流岡には「かなくま餅」が2軒あった
流岡にうどんらしいうどんは、今のかなくまの福田(本場かなくま餅福田)さんと、その前にあった秋山(かなくま餅・現在は観音寺市植田町に移転)さん。その2軒だけだったな、私の記憶では。あれは江戸の末期、明治の初めからだろうかな。相当古いんは古いな。考えてみたら、植田の「かなくま餅」がもう何代目? 3、4代目になるかな。お父さんのお父さん。つまり婆さんの時代からやっりょるわな。
四辻に「横田」いうんがあって、今もまだ建物は建っとるけど、アレはうどん屋でなかったな。旅館兼料理屋みたいなん。それぐらい。子供や店は行かんかったから、ほとんど知らんな。せいぜい10円玉握っての、かき氷をたまに行くぐらいかな。それとその向こうにあった「森」いう古本屋さんぐらい。元は薬屋もしとったんやけど、私らが中学2・3年頃はね、あそこいっぱい古本置いてあったん。袋とじのね。
神道の行事ではうどんは食べなかった
法事や祭りでうどん食べるいうのは、一般農家はやっとったと思いますけど。私んとこは神道で、そういうようなんでないから、取り立ててうどんいうんはなかったな。
観一の食堂にはうどんがあった
高校は観一(観音寺第一高校)。私がおった頃には、食堂にうどんがあった。カレーもあったような気がするで。おばちゃんに言うたら、できたやつが出て来るようなんな。他の高校、観商(旧観音寺商業高校)やって皆あったよ。
栗林にはうどん屋がたくさんあった
昭和27年に高校卒業して、香大の教育学部へ行きました。私の専攻は日本史。スムースに卒業したから、高松には昭和27年から31年までおりましたね。
高松では下宿したり帰ったり、また下宿したりして。下宿も転々としてました。栗林と浜ノ町。それからどこやったかいな。測候所(気象台)があったから伏石町か。測候所にガールフレンドおってな(笑)。伏石の辺りも今どないなっとるの? もう街になっとんちゃうんかな。ほんで伏石町に“伏石事件の碑”いうんがあるんやけど、その碑のある前の家に住んどったんや。用心棒兼用で。
香大行っきょった時は、うどん屋が栗林にぎょうさんあったわ。覚えとるんはね、三叉路んなっとるとこの交差点にあった店。栗林公園の角じゃなくて、そっから東へ道が伸びとる。店は食堂とか、そんな立派なもんと違ごとったけど、うどんはそこで打っとったと思うで。
そこのうどん屋さんがの、ドジョウ食べらしてくれたわ。ドジョウうどん。ドジョウはいつもあった訳ではなくて時期によるよ。夏だったか冬だったか、よう覚えてないけど、とにかくドジョウは匂いがあるんだ。それで覚えとんだわ。アレが嫌でな。「また、ドジョウかい」言うて。ドジョウ鍋いうんもあったでしょ?
普通のうどんもあったけど、かけうどんとは言わんかった。単にうどんや。だけどな、天ぷらうどんとか肉うどんとかいう、そういうような名称があったかどうかは定かでないな。あそこへはちょくちょく行っきょった。あと、下宿から香大へ行く途中の辺りはなあ、うどん屋は何軒もなかったよな気がするな。昔は高松でも、そんなにうどん屋うどん屋言わんかったで。全然の。
そうそう、香大の中の食堂にもうどんがあったけど、そこで打ったりはしてなかったと思うよ。
観音寺の古いうどん店
ほんで香大を卒業して、観音寺帰ってきたんよ。最初は中学校の先生でな、5、6年おった。その後観商行て、それから観一。で終わり。観商と観一で30年おったな。その他、知らんのや。昔でも転勤する人はしたけど、遊びたい人はずっとおったんや(笑)。
こっち帰って来て先生になった後は、昼は自分の弁当持ってきよった。観一の時は、ほとんど弁当やったの。観商の時にはあの学食や。開いとる時間にサッと。先生もよう食べよったやろ。だから行っきょったうどん屋いうたら、あんまりないな。
古いとこいうたら、「かなくま餅」と池之尻(観音寺市池之尻町)の「大喜多」か。「大喜多」の婆さんとわしゃ、仲がええんじゃけどな。そうそう、「大喜多」のこっちに「イサム」いうのがあったやろ? 「大喜多」からずっと来て信号の手前やわ。店は「大喜多」やと似たような感じで、味は「イサム」の方が私の口には合った。優しい感じでの。今はもうないわ。「つるや」や「柳川」もそなん古ないな。
あとはもう、観音寺の街中で古いうどん屋いうんは、観一の前の「まきや」くらいや。あそこはうちらの時代やけんの。亡しなった友達の同級生がやりよって、その父ちゃんの時代からやけんな。昔はの、観一の生徒が店の上に下宿しよった。伊吹や粟島とかね。それとこっちの「藤原食堂」と、アイスキャンデーの牛乳屋とね。それと、セルフは全然私のアレにはないな。昭和45年頃、私が30代にはあったけど、観音寺ではどんなんだろう。自分でやるいうのは、この辺りほとんどなかったな。
西讃でも財田川を境に文化が違う
そやけど、うどんも習慣も西讃と東讃とはかなり違うやろ? 西讃でも、いわゆる三野郡(ごおり)と豊田郡(旧三野郡と豊田郡・合併して三豊郡になり、現在は三豊市に)、とのやっぱり違いはあると思うよ。旧藩時代のね。
さっき言よったドジョウは、鳥坂越えた西では食べんやん。それと同じように、フナのてっぱいも財田川よりこっち側と向こう側だったら、やっぱり向こう側(三豊市側)の方が盛んなん。高瀬やあっちの方が。ため池とフナの文化。こっちもあるけどね。この辺り、大野原は比較的薄いんと違うかな。製麺所でも乾麺しよるとこが多いな。
●編集部より…昭和20年代にあった観音寺のうどん屋さんがどんどんプロットされていきます。観一の前の「まきや」と「藤原食堂」は、昭和46年にはほとんど「食堂」になっていましたが、この方によると、それ以前には「うどん屋」という記憶だったようですね。