香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市田町・昭和31年生まれの女性の証言

町中のうどん屋で生まれ育って、嫁いだ先でまたうどん

(取材・文:

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  • vol: 243
  • 2017.10.30

祖父が田町でうどん食堂をやっていた

 私は昭和31年に田町の商店街で生まれて、高校1年の冬まで住んでいたんですけど、私のおじいちゃんがそこでうどん屋をしてたんです。おじいちゃんの名前の「久三郎」から取って「すし久(きゅう)」っていう名前の店でしたけど、握り寿司のお店じゃなくて、うどんとお寿司(ちらし寿司)と、丼やおでんもある食堂でした。でも、隣が握り寿司のお店だったから、どっちかというと、うどんがメインの食堂でしたね。
そのお店は田町のどのあたりにありましたか?
 南新町と常磐街と田町が交差するところに交番がありますね。そこから南へ田町商店街に入って、田町の商店街は1班(北側)と2班(南側)に分かれるんですけど、その1班の二つ目の角。商店街の西向かいに魚屋さんがあって、路地の南向かいが「くつわ堂」(閉店)で、斜め向かいに「高島金物店」があって…
あ、「大黒や」さん(閉店)のあったところですね。「しんぺいうどん」の南隣。
 そうですそうです。
そのお店について覚えていることがあれば教えてください。
 でも、うどんは自分では打ってなくて、茹でたうどん玉を四角い竹のすだれみたいなぶん(セイロ)で20玉くらいずつ仕入れてたと思います。お店そのものがそんなに広くなかったからかもしれませんが、お昼の食事時はたいていほとんど満席で、とにかくいつもお客さんがいっぱいだったような記憶があります。

 私たち家族は、そのピークを過ぎた時間に“遅い昼ご飯”でお店のメニューを食べたりしてました。あとは、岡持ちで近くの商店や会社に出前もしてましたね。歩いて持って行ったり、片手運転の自転車で持って行ったり。

昔は田町も賑やかだった…

 今は田町はちょっと寂れとんですけど、昔はもっと賑わっていましたよ。歳末大売り出しの季節になると、隣の常磐街からすごい音量の音楽が流れてきて、人も田町に溢れてきて。焼き芋とかわらび餅とかを自転車の荷台に乗せて売りに来る人もいました。

 それと、高松祭りの総踊りは今は中央通りでしか踊らないけど、昔は田町の商店街でも練り踊ってました。私も田町商店街の踊り子で出ることがありました。中央商店街をずーっと歩行者天国みたいな感じで踊って。私は南から北に向かって踊ったような記憶があるんですけど、どっから始まってどっから終わったのかはっきり覚えてない。

 でも、とにかく賑やかだったのを覚えています。瓦町駅とか、瓦町駅前の噴水とかも人がいっぱいで。昔は瓦町が待ち合わせのメッカでしたね。あと、常磐街のダイエーの地下にもうどん屋さんがありましたね。

田町界隈の食事処の記憶

他に、田町界隈にうどん屋さんはありましたか?
 自分ところでうどんしよったから、外食っていうのはうどん以外のもんだったんです。だから、他の店でうどんを食べた記憶がないですねえ。四番丁小学校(廃校)に参観に行った時、近くにあった「アズマヤ」っていう喫茶店にうどんがあったんは覚えてるんですけど。
じゃあ、うどん以外で外食でおいしかったお店は?
 常磐街にダイエーとかがあった時に、「常磐食堂」っていう食べ物屋さんがあって、そこに「ぬく寿司」っていうのがあったんですよ。
それ、他の人のインタビューで「店頭に人形が立っていた」と聞いたのですが。
 あー! 人形あったあった! 大阪のくいだおれ人形みたいなのが。小さい時にありました。それとね、商店街をまっすぐ行ったら三越があったから、親が三越のレストランによく連れて行ってくれました。よく食べてたのはお子様ランチかな、小さい時は。

 あと、お好み焼きの「ふみや」。すごくカロリー高そうなんやけど、親とかおじさんとかに連れられて小さい時から食べよったから、小さい頃は私の中でお好み焼きと言えば「ふみや」だったんです。それが、大人になって普通に生活し始めたら、「普通のお好み焼きはもっと薄っぺらくてあっさりしてる」ということがわかった(笑)。

仏生山で初めて“打ちたてのうどん”を食べた

その後、仏生山に来られたんですね。
 その前に高校1年の冬に父親が高松市内で家を建てて一度引っ越して、それから結婚して仏生山に来ました。こちらに来てからは、高徳寺のそばにあった「松野」のうどん屋さんの太いおうどんがすごい好きでした。うちの姑は「あれは年寄りには太すぎる」と言って、仏生山コミニュティセンターのまん前にあった「藤本」だったか「ふじや」だったか、そこのちょっと細麺のうどんをよく食べていたので、私も「松野」さんとそこと、太いのと細いのを交互に食べに行ってました。

 実は、打ちたてのおうどんを食べたっていうのは、仏生山に来てからが初めてなんです。田町の実家のお店で食べていたおうどんは仕入れた茹でうどんを使ってたから、家に届いた時には腰もあまりなくてちょっと乾いていたというか、それを湯がき直して具材を入れて肉うどんとかにしてよく食べていたような記憶があって。

どっちのうどんがおいしかったですか?
 やっぱりおじいちゃんが作ったお店のおうどん(笑)。特に肉うどんがすごいおいしかった。どんな丼に入ってたとか覚えてないんですけど、口がそれで慣れとんか、とにかくおじいちゃんの作ったおうどんがおいしかったと記憶しています。

 あとは、しっぽくうどんを食べたのも仏生山に嫁いでからです。田町にいた時には、しっぽくうどんっていうのはなかったと思う。年越しでもしっぽくを食べるっていうのはなかったです。大晦日もお店は営業してたので、しっぽくせんでも普通におうどん食べよったから。

お寺でうどんを打ってお手伝いさんや参拝客に振る舞っていた

仏生山のお寺さんにお嫁に来られたそうですね。
 はい。宗派は浄土真宗西本願寺派。お寺の行事は朝の部とお昼の部があって、その間が「おとぎの時間」ていうんですが、その「おとぎの時間」にうどんを出してました。それを食べ終わって、お経とかお説教とかのお昼の行事が始まるみたいな。

 近所のお世話してくださる女の人が、お嫁に来て最初のうちは10人くらいおったかな? その方々がしっぽくうどんのダシをとって、具を炊いて、煮物とかもしてお接待してました。

 一般の参拝者というか、お参りの人はおうどんの接待だけ。お代わりありで、おうどんかおそばか聞いて、食べたいだけ食べてもらってました。お世話されてた方と、家族と、他から来たお寺さんにはお膳を出して、ちらし寿司と醤油豆と煮物とお魚の焼き物、お魚は魚屋さんで焼いてもらったものをしてたんですけど、あと和え物だったかな。何品かあるものをお膳で出して接待したような記憶があります。

そのお膳にはうどんはついてなかったんですか?
 ついてなかったです。でも、おうどんを余るくらい製麺所から買ってくるから、お膳に着く前に「おうどんいかがですか」って声かけたらたいていの方はおうどん食べてましたね。そのおうどんとおかずを食べて、ちらし寿司とかは袋とかタッパとかに入れて持って帰ってたような。それでも食べ切れんほどあって、最終的にはおうどんとかおそばとか残るから、お供えと一緒に袋詰めして、お手伝いの方に分けてお渡ししてました。
法事のお土産に素麺を渡すこともあると聞いたのですが。
 私は最近になって「仏生山に素麺の文化があった」というのを聞いたんです。素麺は小豆島のもんだとずっと思ってました。でも、嫁いでからずっと、お寺で素麺を出したりすることはなかったですね。
お寺でうどんを打つことはありましたか?
 私が嫁いだ時には、おうどん屋さんからおうどんとかそばをとってたんですけど、舅と姑に聞いたら、昔は「お寺で打っていて、それをお寺に来た人やお手伝いさんに出してた」って言ってました。結構大変だったって言ってました。それがだんだん簡素化してきたというか、お世話する人が楽になるように、お店からうどんを取るようになってきたようです。

●編集部より…昭和30年代の田町商店街のうどん事情と、昭和50年代あたりの仏生山のうどんの記憶をいただきました。製麺所から仕入れた「作り置きの茹でうどん」を使った食堂のうどんが「おいしかった」という話。やっぱり、昔は今のように「うどんは打ち立てに限る」という文化ではなかったようですね。

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