「野口」でうどんの美味しさを知った
- 子供の頃のうどんの記憶は?
- 私ね、高松の丸亀町のまん中で生まれた町の子なんで、家ではおうどんしなかったから、小さい頃はおうどん食べたことない。少し大きくなってからは食堂でラーメン食べたりおうどん食べたりはしよったけど。家の隣が食堂だったかな? うどん置いてるのは食堂みたいなんばっかりで、うどんは店で打ってはなかったと思う。それが子供の頃。戦後、昭和20年代かな。
- それから仏生山に来られたんですか。
- そう。こっち(仏生山町)に嫁に来たん。そしたら、台所に打ち板もあるし、麺棒もあるし。おばあさんやおじいさんは以前から家でうどんを打っちょったんだろうと思います。
- 仏生山にはうどん屋さんもあったんですよね。
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仏生山、うどん屋さん多かったね。今はもうだいぶなくなっとるけど。高松信用金庫の横の方に「山本」さんいううどん屋さんがあった。高松信用金庫があって散髪屋さんがあるでしょ。その二軒目、三軒目かな。水路みたいなん挟んで横のところにあった。
それから駅前の「宮武」さんは今も繁盛しとるし、この通りには「きくや」さんいうおうどん屋さんもあって、そこはラーメンがピカイチ。「ふじや」さんていううどん屋さんもあったんですよ。そこはおじさんが打ったりしてた。
- 一番おいしかったのは?
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私は「野口」のうどん屋さんが一番好きだった。仏生山にお嫁に来て野口のうどん屋で食べて、そこで初めてうどんの美味しさを知って、うどん好きというか、うどんをよく食べるようになった。それから私もあちこち食べ歩いたり四国八十八箇所回ってよその県でもうどんを食べたりしたんやけど、やっぱり野口のうどんを食べんとうどんを食べたような気がせんかった。
野口は鍋を持って玉を買いに行ったりするくらいの距離やし、若い頃から馴れてその味を覚えとるから、よそに行っても「こっちが勝っとるなー」という身びいきもあってね(笑)。でもほんとにおいしかった。おうどん自体がおいしかったから、生醤油だけでもおいしかったんや。
法事ではうどん5玉を重箱に
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法事では必ずおうどんとお寿司がありましたね。自分の家が法事の時には、おうどんを5玉と、お赤飯とお供え。それを重箱に入れて持って行っきょりましたね。それがだんだんとやっぱり、法事をお家でしなくなったから、葬祭場行くようになってから今はうどんを出すとこ、あんまりないんじゃないですかね。
あとは、私は親からうどん打ちは教わってないけど、子どもたちにうどん打ちを教えようということで学校でしたこともあります。私らが塩水作って、子供にうどん打たせて。それはPTAの活動のひとつとしてしました。
バザーとかはやっぱりおうどんが一番に出るよね。前は地元のおうどん屋さんからとっりょったんやけど、だんだんと打つ人が高齢化して100玉も200玉も打てんようになった。毎年文化祭で婦人会がおうどんするんですけど、今はもう塩江街道に「橋本」さんいうんがあってそこから仕入れてます。
仏生山の素麺
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仏生山は「松平さん(初代高松藩主松平頼重)が素麺始めた」ってことで、素麺もけっこう食べてます。仏生山コミニュティセンターの裏に「松野」さんていううどん屋さんがあって、そこが素麺しよった。私がお嫁に来た時にはそこのお婆ちゃんが素麺作っりょったいうんは知ってるけどね。
仏生山の素麺はちょっと太いんですよ。島素麺みたいな細いんでなしに。ちょっと細くて平べったいいうんかな。でも、やっぱりお素麺よりはおうどんの方を食べましたね(笑)。
●編集部より…戦後昭和の仏生山(高松市仏生山町)は、うどん屋(製麺屋)もいっぱいあり、素麺も本場だったようです。伝えによると、松平頼重公が仏生山の法然寺周辺を門前町として賑やかにするために、あのあたりに今で言う「素麺特区」みたいなのを作ったのが発祥だとか。でも、今はその面影はほとんどありません。いつ頃消えちゃったんだろう。