近所にうどん店が相次いでオープン
昭和35年頃、国分寺の国道(現在の県道33号)ぶちに「山下」と「三嶋」のうどん屋が相次いでオープンした。この両者は、やがて讃岐うどんの有名店に成長するが、両方ともうどん店を開業する前は米つきや製粉をやっていた。農家が小麦を預けて帳面をもらい、それを持って行って必要な時に小麦粉やうどん玉をもらうシステムだったようで、私も山下へうどん玉をもらいに行ったことを覚えている。
山下は、現在うどんを食べるテーブルが置いてあるところに製粉の機械が坐っていて、ベルトなどもあったように思う。そこで作っていたのかどうかはわからんけど、そうめんを買ったこともある。三嶋は、今の店の県道側の家があるところで精米をしていたように思う。いずれも水車ではなく、動力で粉をひいていたようだ。
うどん店は両方とも昭和30年代の開業やと思うけど(編集部注:山下は昭和35年頃、三嶋は昭和39年頃開業とのこと)、初めは店で食わすよりうどんの玉売りが主やったように思う。私もうどん玉を買いに行って、家で食べていた。山下には太いうどんと細いうどんがあり、太いのは無茶苦茶太かった。冷やしうどんにすると、堅くてのどに詰まるほどで食べづらかった。
三嶋は、まだまだ香川県内にうどん屋が少なかった時代にあって、かなり広域でも評判になっていた。近くに香川県の青年センターがあり、青年団のスポーツの大会がある時などは、三豊郡や大川郡の青年たちが並んで食べていた。それで味をしめた人たちが、遠方から駆け付けるようになったという。
四国霊場80番札所国分寺の門前にあり、昔からお遍路さんの来店も多い。おしゃべり好きでお接待の心にあふれたおかみさんがミカンやからし漬けなどをふるまい「腹起きたん(おなかはいっぱいになりましたか?)」と笑顔で聞くのに、お遍路さんたちに全く通じない場面にも出くわしたことがある。腹が起きたか聞かれても、都会の人ならびっくりして通じるわけがないわな。
県道から山手に入った西山団地の入り口にあった「香川」という店でも、うどん玉を売っていた。もともと駄菓子屋で横に米つき機があり、その隣でうどんを作っていた。いつごろやめたかは、はっきりしないけど。
ドジョウうどんは嫌い?!
家で作るのは、もっぱら太い打ち込みうどんだった。大根やサトイモ、ニンジンなど有り合わせの野菜を入れて味噌で味付けしていた。ドジョウがたくさん取れた時はドジョウも入れていたが、私は煮崩れたドジョウの姿が気持ち悪くてあんまり好きではなかった。
国分寺はもともとドジョウ汁の盛んな土地柄で、今でも“いでざらえ”や道路清掃、祭りの打ち上げなど、折々にドジョウ汁を作って宴会を楽しむ自治会がある。旧の国分寺町は人口の半分以上が町外から来た人らしいけど、ここで生まれた人々が多い自治会には、決まってドジョウ汁を作る大釜があり、味を差配する腕自慢がいるものだ。
家でうどんは作らなかった
国分の八幡さんの祭りの時は、三嶋や山下でうどん玉を買ってきて家で食べていた。友達は、みんな家で親が作ってくれたと話していたが、うちでは親がうどんを打つのを見たことがない。
私にとって、祭りのごちそうは、うどんよりバラ寿司と天ぷらやった。うどんはいつでも食べられたけど、寿司や天ぷらは普段はなかなか食べさせてもらえんかったから。おじいちゃんやおばあちゃんのいる家庭では、青や黄色や赤の色粉を使った鮮やかな天ぷらを作っていたようだが、私の家ではしなかった。あっさりした親やったのかも。