水車で小麦を製粉して「替え粉」に
私のとこは「奥村車」いう水車をやってたんですよ。記録では、水車は滝宮に6カ所あったと。綾川の昔の橋の下に「上車」いうんと、今の新しい11号線の橋の下に「中車」いうんがあって、これが古かったんですな。それで、うちの奥村車は「天保時代に真鍋某が所有していて、安政7年に奥村某が持っていた」とあります。奥村いう大庄屋がおって、農民が米の裏作で小麦作りよったから、それを加工する場所を作った、その人の名前がついてるわけね。それから明治22年に岡田さんという、この人も地主なんですよ、その人に渡って、明治34年にうちの祖父がここに来て、人から人へ渡っとるんやな。
昔は電気もなくて動力は水力しかないですから、水車で、麦作ったりお米作ったりした分を挽いて、小麦だったらメリケン粉にしたり、ハダカムギだったら精麦して麦ご飯にしたりね、そういうことをしよったわけです。その粉でうどん打ったり、後には素麺したりもしてました。
「替え粉」というて、農家の皆さんが作った麦を私の所へ預けにくるんです。家ごとに何俵も麦俵に入れてね。それを納屋に積み込んどいて、水車で石臼回して粉に挽いて、ふるいにかけてメリケン粉を作る。それを麦の現物と交換するわけですな。預かっとる分の何割をメリケン粉で出して、何割かは加工賃で取るという具合で、そういうやり方で近所の麦を預かりよった。近所いうてもこのへんだけでなくて、ずーっと羽床の方までね。そういう生活をしよったんです。
親父は外で働きよったけん、水車はおふくろがやってました。水車は直径が5mくらいあるんです。幅が1mちょっとある。それが左右でそれぞれ、ベルトで石臼回すギアとつながっとって、片方は製粉で、片方は精米になっとって、夏とか水力が足らん時は一方だけ回して、水力が多い時は両方いっぺんに回すんやけど、そしたらベルトが切れたりするんです。粉にしたやつをコンベアみたいなんで天井まで上げて、それを絹でできた大きなふるいにかける、それが機械のベルトが切れたりしたんをそのままにしとったら、朝になって挽いた粉がこぼれて山になっとるけん、おふくろは不寝番ですわ。回りよるのを確認せないかんけん、水車が動きよる間は寝られませんわ。冬は寒いですよ、開けっ放しになっとんですから。
そういうふうにしてメリケン粉を挽いて、大きな木で出来た布団入れる箱みたいなんに入れとく。それでお客さん来たら片っ端から売って行くんですね。女手一人でやるんは大変ですから、若い衆を何人か使うてました。
私が小学校1年の時に終戦で、その頃は朝5時頃起きたら、メリケン粉と替えに高松や琴平からも人が来てました。ほとんど電車にも乗らんと、歩いてきよった人もようけおったですわ。そういう人が映画館来るみたいに並んどった。戦後の食糧難で、メリケン粉すら買えんかった時代ですわ。きれいなメリケン粉はよう買わんけん、ヌカみたいなんまで買うていきよった。嫁入りの着物や服まで置いていってね、替えてくれと。それくらい食べるもんがなかった。
水車は昭和33年、私が大学生の時にやめました。もうその頃は食糧事情が安定して、電気の事情もよくなりまして、人が来やすい便利な所へ大きな製粉工場ができたわけです。食糧事情が安定したら、もうこんな不便な所へ来ませんからな。
子供のころに聞いたんは「ここのメリケン粉はおいしいな」いう人があってね。戦後の食糧事情の悪い頃で、粉をようけ取らないかんけん、他所のは挽いた粉をどんどんふるいにかけてね、二へんかけたらええところを三べん四へんも、がいにふるいまわるけん、小麦の皮のカスまでが下に落ちるわけです。皮と中の身と両方混ざって出てくるわけですよ。そしたらちょっと黄色っぽい色がつくでしょ。それをさらし粉で漂白するいう製粉業者もないわけではなかったらしい。うちは絹でふるいよったですから、ほんまのメリケン粉特有の、ちょっとクリーム色した粉を出しよった。それでうどん打ったらうまいと褒めてくれよったですよ。だから今みたいにうどんが流行るてわかっとったら、水車しとった方が良かったかもしれん(笑)。うどん屋でもしとったら、今だったら売り出しできたかも。
「用水ざらえ」のお昼はうどん
普段はメリケン粉は団子汁、すいとんとかね、いろんなことして食べてましたよ。私らは何事かいうたらすぐうどんしよったな。このへんは各家庭にね、打ち板いうて食卓ぐらいの大きな板と麺棒が必ずあったんです。それで手打ちうどんやる。私んとこは、私が物心ついた頃はもう機械でやってました。その当時は新しかったと思いますよ。それで、明日お祭りや法事やいうたら、おふくろが頼まれて徹夜してずーっと作っとりました。何十軒分も。それを各家に持って帰って茹でてね、何事かあったらそれを出しよったわけですね。
ここのイデなんかでもね、田植えの前に水入れないかんから、「用水ざらえ」いうんがあるんですわ。これが、ずーっと何キロもある長い用水路なんですよ。それで20軒もに余って水田に関わっとるようけの人が用水ざらえに来ますけんね。
私のとこは出なくていい代わりに、みんなの昼食を用意せないかん。とにかくうどんを打って茹でて、昔のことやから出汁やなくて生醤油をちゃっとかけて。そこの前の角でね、筵敷いて、何十人もの人がだーっと並ぶから、うどん入れたもろぶたが山になって、もう朝から戦争みたいでしたわ。
私が中学校くらいまではそんなん手伝いよったね。一人が4玉5玉食べるからね。昔は家でするけん、うどん玉でも大きいんですよ。今の1倍半はありましたからね。それを茹でて置いとったら、もろぶたに20くらい入っとんがあっという間になくなりよった。「一人であの人なんぼ食べたん」いうて。丼にぱーっとうどん玉入れて、ぬくめもなんもせんわな、醤油だけかけて。昔やそういう程度のうどん食べよったんよ。
また生醤油いうんがね、わりと旨かったんですよ。このへんの人はみんな自分で作るんです。お味噌作るでしょ、家で大豆でお味噌作ったら、お味噌の絞り汁で醤油作っじょったんです。
そういうイデざらえとか、お祭りとか法事とか、そういう行事がようけあったんですよ。田舎ですからね。年中行事は、毎月の地区の例会、毎月決まった日に寄り合いがあるんですよ。それから地神祭、地の神様のお祭りね。それから龍王祭、これは水の神様ですね。それから白石神社のお祭り、これはこのあたりの氏神様でね、秋には神楽を舞うんですよ。それから清掃でしょ。道路の普請、敬老会とか公民館活動とか、こういうのに全部うどんが出るんですよ。
月に二、三回は何かある。そういう時はうちでうどん作りよった。手でするより機械でする方が早いからね。昔は農家の人はお米が食べられんかったけん、うどんがおごっつぉう(ごちそう)でなかったかと思いますよ。神事とか祝い事とか、同業の寄り合いとか用水ざらえとかの農作業ね。それから「麦うらし」言うて、麦が熟れて刈り込む頃ね。麦を収穫する時はドジョウ汁を作りよった。ドジョウもこんな用水にようけおったんです。ドジョウとかウナギがね。麦の収穫は大変な労力やから、ドジョウ獲ってドジョウ汁食べて、体力つけよったんやろね。
うどんの耳でうどん汁
そんなんで、うどんようけ打ったらうどんの耳もようけできるでしょ。それで私のとこは晩飯はしょっちゅう、それのうどん汁でしたわ。若い衆も雇とって、大鍋にうどん汁炊いとったら、みんな喜んで食べよったような時代です。お味噌も納屋に樽が4つも5つもあってね。ということは、それだけうどん汁をしよったいうことやな。うどんだけでなくてお団子にしてすいとんにしたりね、必ず日にいっぺんは食べさされよった。
出汁は、うちはおふくろが商売しよったけん、こんな大きな紙袋に入ったイリコね、イリコいうても大きな、大人の指くらいあるのを買うとんですよ。高松の方から、漁師の奥さんやと思うんやけど、うちに「奥さん、買うて」言うて担いで来よったんです。その大きな袋をぼーんと置いて、代わりにメリケン粉をあげてね。そのイリコを食わされるんですよ、こんな大きなイリコをね、ドジョウみたいなやつそのまま入れとんですから。うちの兄貴がそれが好かんかってね、よう残して親父に怒られよった(笑)。
最近は家族葬みたいなんが多なったけど、ちょっと前までは法事いうたら親族みんな呼んで法事しよったでしょ。だから、行ったらご飯食べて来とんのにまずうどんが出るんですわ、必ず。僕もこないだ親類の法事行ったらね、すぐお経上げるんか思たら、その前に15分か20分の間にうどん持ってくるんですわ。「もうおばさん、うどんいらんわ」言うても「いやこれは習慣やから」言うてね、そういうのが残っとんやね。「手打ちうどんのおいしい所を選ってしとんやから、そない言わんと一口でも食べてくれ」言うてね。
お経がすんだらちゃんと何千円もするお膳が出るでしょ、だからうどんなんかはいらんのに出るんですな。最後にうどん玉が残ったら持たしてくれるし。お供えのおまんじゅうとかと一緒に、残ったうどん玉までくれる。僕らやもううどんに飽いとるのに、2日くらい食わないかん。昔の人は食べよったけど、今の子は食べませんな。昔みたいに4つも5つも食べる人おらんでしょ(笑)。