戦中戦後は麦飯と打ち込みうどん
僕が生まれたのは農家。ごく普通の農家ですな。父親が36才の時に戦争にとられて昭和20年に沖縄で戦死したんです。おふくろも同じ頃にこっちで病気で死んで、当時のことやから過労か、何の病気かわからんわな。今みたいな機械もなんも無い時代やから、田んぼするんは苦労したんでしょうな。4人兄妹で私が末っ子で、両親が死んだ時は私は4才で、10才まではここで育って、たまたま子供の無い夫婦がおって、そこに養子に出されたんですな。そこも農家でした。
戦中戦後で、言わば日本のいちばん貧しい時代に育ったからね。農家やから食べもんはあるけど、おいしいもんなんか一つもなかったな。お百姓いうのはお米作っりょんやけど、自分ではお米食べんのやな。米は僕らの小さい時には新米ができた時に食べたぐらいで、だいたい三食麦飯だった。麦飯は全部麦でなくて、お米に麦が混ざっとるわけやな。小麦とはまた種類が別なんですよ、麦飯の麦はね。
小麦は作っちゃあ水車小屋に持って行って、粉と替えてもろて。持って行った麦の6割ぐらい粉と替えてもらうんやな。それで打ち込み汁みたいなん作ったりね。一食は必ずそれですわな。僕ら子供の頃は、農家はどこでも家に麺打ち台と麺棒があって、うどん打っちょったな。
讃岐は麦が採れる、塩ができる、いう物理的条件もあったやろけど、讃岐の人が昔からうどんを作る習慣があったから、讃岐うどんいうて定着したんでしょうな。このあたりは綾川に水車小屋があったから粉ができたし。
小作率の高さと小麦の小作料免除が、うどんを食べる習慣が広がった原因かも
香川県は戦前から小作率がものすごい高かったんですな。小作率が高かったいうのは、反対に大地主が多かったいうことで、この狭い県に50町歩以上の大地主が70人くらいおったらしいですわ。それは全国で3番目くらいだったらしい。小作率が高いのは大阪に次いで2番目だったらしい。
それで、大正から昭和の初めにかけて農民運動が盛んになって、小麦については小作料を取らないことになったそうです。それがうどんを食べる習慣が広まった大きな原因やないかと思います。小麦は一生懸命作っただけ自分のもんになるからな。それで一食でもお米を食べずに麦を食べるために、どこの家でも麺打ち台と麺棒があったんでしょうな。足で踏んで作って、味噌仕立てで野菜と一緒に炊いて、その中にドジョウが入ったりね。栄養バランスも取れとるわね。そういうのが根底にあるんやないかと。
うどん打ちいうても、昔は水加減もいいかげんやったと思うよ。秤があるわけやないしね、その時々で味も違うわな。「土三寒六」とか言うてもいいかげんですよ。今は水と塩の量と1グラムまで計って、その時の気温と、粉の種類でも変えてしよるけどね。
昔は打ち込みうどんをしょっちゅうしとったわな。あれは粉に塩入れんで味噌仕立てで煮込むからな、多少荒っぽくてもできよったんよ。水で練って足で踏んで、ちょっと寝かして。家で味噌も作っじょったからな。野菜も作っじょったし、ほとんどは家でいろんなもんを作っじょった。買うんは油ぐらいやな。ドジョウとか川で取れよったし、池でタニシもカラスガイみたいなんも取れよった。そんなん食べてましたわ。
「麦うらし」と「足洗い」
このへんは「麦うらし」いう行事があって、春に麦が熟れたら刈り取りをして、その後、田植えをするんやけど、過酷な労働ですからね、その前に栄養補給をするんやな。ドジョウ汁をしてみんなが集まって酒飲んで。
それから「足洗い」いうのがあって、田植えがすんだ後は泥で汚れた足を洗ういうんで、集まってドジョウ汁をする。これは今でもやっとる所もあります。私の姉の息子のとこでも、こないだ足洗いでドジョウ汁をして、大きな鍋で炊いとって、20人くらい友達とか農業しよる人とか、町長さんやら農業委員やらも来てましたわ。そういうことが続いとる所もある。
僕らの若い頃、滝宮天満宮のあたりにうどん玉を作るうどん屋が何軒かありましたな。好きな人はそこに行って、丼借りて、そこにある醤油をちゃっとかけて食べてましたな。僕らも子供の使いでうどん玉買いに行ったり、いろんな行事の時には必ずうどんが出よったな。法事や祭りでも、親戚のとこ行ったらうどんと、色粉で色のついた天ぷらとばら寿司と、三点セットみたいなもんやな。
今は祭りもすたれたもんで、祭りで客が来るいうことはほとんどないですね。法事も今は葬祭会館みたいなところが多いけど、昔は家でしよったけん、人が来たらすぐうどん出しよった。10時に始まるいうても、お客さんが来たらすぐうどん出しよったな。