生地の切れ端を、きりたんぽのようにして食べた
生まれは岡山ですが、空襲で焼き出されたために生後すぐ、母の里の伏石(高松市)に家族で移り住みました。
昔の伏石は現在の住宅地のイメージとはほど遠く、田んぼや畑ばかり。隣の林町も一面の原っぱでした。伏石の目印になっている高松気象台の鉄塔は当時も聳え、また林町の旧・高松空港があった場所は軍用飛行場として利用され、どちらも戦争中は空襲でよく狙われたそうです。ただ終戦末期には飛行場に本物の機体はなく、カモフラージュするための模型ばかりが並んでいたといいます。
物心がついたのは戦後まだ間もない時代。貧しい暮らしの毎日を送っていましが、幸いにも親戚が農家だったために、食べ物には困りませんでした。旬の野菜たっぷりのしっぽくうどんが、食卓を飾ることもしょっちゅうありました。
家には細長い麺棒や麺を打つための広い板、四角い大きな包丁など、現在のうどん屋でも見掛ける調理道具が揃い、祖父が腕を振るっていました。私もそのそばでお手伝いと称して、生地の切れ端を割り箸に刺して遊んでいた記憶もあります。その割り箸で刺した切れ端の“うどん団子”を鍋に入れたり焼いたりして、きりたんぽのようにして食べていました。
馬渕うどんが大人気だった
酒屋を営んでいた祖父ですが、店にはうどんが入ったせいろがいつもありました。でもそれは、祖父が打っていた麺とは違います。毎日、近くの製麺所から仕入れていたものです。後年、店を手伝うことになって詳しく知ったのですが、せいろは従業員の昼食のために用意されていたもので、「馬渕うどん」から取り寄せていました。
馬渕うどんは当時、太田や伏石の界隈で唯一あった製麺所です。現在「手打麺や大島」のある場所に軒を構えていました。どちらもうどん屋ですが、関係があるかどうかは知りません。
店は亀太郎さんという方が切り盛りし、大忙しの毎日を送っていました。余りの忙しさに、配達や大量注文は断っていたほどです。納屋のような店には狭い飲食スペースもありましたが、いつも溢れ返り、弾かれたお客さんは外でうどんを食べていました。
「毎年、借家が建つほど○○○○…」という言葉を一度、笑顔の亀太郎さんから聞いたことがありますから、相当儲かっていたんでしょうか(笑)。調理場には25kgの小麦粉が入った茶色の紙袋が3~4袋も常備されていました。伏石や太田には良質の地下水が流れていますが、その水を井戸で早くから確保できたことも、たくさんの麺を捌くことができた要因かも知れません。平成に入ってからも、馬渕うどんではその井戸水をずっと使い続けていました。
県外の法事にうどんの入ったせいろを持って行って喜ばれた
これまでに生涯で最も多く口にしたうどんは、馬渕の麺で間違いありません。酒屋を手伝っている時は自転車の荷台にせいろをくくり、独立してからはボウルを手に、忙しい仕事の合間を縫って買い求めました。
県外の法事に出掛ける時も、御霊前へのお供えとして麺の入ったせいろを持って行ったほどです。朝から出発しなければならなかったため、無理を言って早くから店を開けてもらったこともいい想い出です。お陰で親戚は大喜びでしたが。