当時の製麺所は水車小屋から小麦粉を調達していた
- 昔の綾歌に、うどんが食べられる店はありましたか?
-
旧の綾上町に住んどったけど、うどんを食べられる飲食店なんて全くなかった。あったんは、うどんの玉を販売していた製麺所。うどんだけやのうて、そばや素麺も売っとった。地区毎に一つずつ程度の割合で製麺所があったな。
材料の小麦粉は、どこの製麺所も水車小屋で仕入れとった。もう見んようになったけど、昔は精米や製粉をする水車小屋が川のそばに何軒かあって、そこで米や小麦粉を売ったり、玄米や小麦との交換もしよった。綾上は農家が多いけど、昔はいま以上にぎょうさんあって、水車小屋をよう利用しよったし、農家が個人で水車小屋を持っとるところもあった。
農協が製粉を始めてから、水車小屋がなくなる!?
- 水車小屋はいつ頃まで存在しましたか?
-
昭和30年(1955)前後まであったやろか。その頃になったら農協が機械を使って精米や製粉をするようになって、作業に時間と手間が掛かる水車小屋は時代遅れになってしもうた。おまけに、乾麺の製造や販売も農協が始めてな。機械で作ったうどんや素麺が、倉庫で干されとったんをよく憶えとる。その影響を受けて、製麺所の数も減っていった。
そやけど当時、水車小屋で「コトンコトン」と時間を掛けてゆっくりついた(米や小麦の)方が、機械で「バーッ」とするよりも味がええって、みんな言うとった。無論、それを使ったうどんも同じや。
臼や水嚢(すいのう)を使って自前で製粉
- 自宅でうどんを作っていましたか?
-
子どもの頃は爺さんが作っとった。週に一度ぐらいは食べよったやろか。しっぽくが多かったけど、かけやつけ、井手(用水路)で捕まえたどじょうを具にすることもあった。
実家は農家やったから、材料の小麦には困らなんだ。製粉も自分とこでしとった。シーソーのような形をした横長の「唐臼(からうす)」で、一日かけて小麦をカツンカツンと足踏みして。その後で半日かけて小麦を叩いて。できた粉を今度は「挽き臼」で、また半日かけてガラガラと回して。それでようやく、「めりけん粉」ができる。
でも、それで終わりやない。最後に、もう一つ小さい目に下ろす。「水嚢(すいのう)」というきめの細かい網ざるを使って、ふるいにかけるんや。水嚢よりも目が大きい網ざるは「けんど」いうて、豆をふるいにかける時なんかによく使っとったけど、小麦粉はもっと目の細かいそう「水嚢」を使う。それでうどんの材料の小麦粉を作っとった。家での製粉には結構、時間も労力もいったで。
綾上の豊かな水が、美味しい小麦やうどんを育んだ
- 特別な時にうどんを食べることはありましたか?
-
盆や正月、法事、近所の寄り合いがある時には、うどんを食べた。何日も前から準備して。団子にしたうどんの生地を、しっかりと寝かしてから打っとった。おくどで麺を湯がく時も、普段とは違って量が多いから、何度も何度も差し水をしとったし。作っとった爺さんも気合いが入っとったな。
綾川の水は、田畑に引いていた川の水も、家の井戸から汲み上げていた地下水ももの凄く質がようてな。だからぎょうさん農作物がとれて、水車や製麺所ができて、うどんが美味しかったんかも知れん。大正天皇に献上する新米を作っていた田んぼもあったくらいやから。