刃を替えて、麺の太さを調整
昭和28年(1953)から、病気で身体を悪うする平成3年(1991)まで、製麺所をやっとった。その場で食べる店じゃのうて商店や食堂へ卸す専門で、のちに手打ちでやり始めたけど、店を始めたときは、機械麺やった。もともとは、うどんやなくて素麺を作っとったから。今も小豆島でよく見るような、アレと同じ感じの。
店には素麺を作る大きな機械があったんやけど、麺を切る刃がいろいろとあってな。その刃を入れ替えると、いろんな太さの麺に調整できたんや。刃には番号が付いとって、若い数字ほど太い麺ができる。それで素麺だけやのうて、うどんも作り始めた。だから当然、うどんも乾麺。素麺のように干しとった。
けど、何の知識もなくいきなり店を始めたもんやから、最初はよう失敗してな。夕方に干した素麺が、明くる日の朝には地面に落ちとったこともあった。麺が折れてしもて。
小麦と小麦粉は、製粉所で帳面を付けて管理
材料になる小麦は、最初の頃は実家が農家をしよったから、自分とこでまかなっとった。春に小麦を収穫して、それを製粉所に預けて、その都度粉にしてもらった。
管理は帳面でしよったな。1俵60㎏の小麦を5〜6俵ほど預けとったやろか。そのうちの6.5〜7掛けくらいがこっちの取り分。あとは製粉所がとる。やけど皮とかも出るから、製粉所が小麦粉としてとる量は2〜3割ないぐらいやな。それで、製粉所はその小麦粉や皮を売ってお金にして生活しとった。小麦の皮は当時、農家で飼料や肥料に使われとったんや。
生麺に押されて、機械で作った乾麺のうどんを止めた
しばらくはそんな感じで機械でうどんと素麺を作っとったんやけど、昭和30年を過ぎた辺りから周りにうどん専門の製麺所ができ始めてな。そこはみんな手打ちで、生麺。今もある製麺所と同じようなとこや。乾麺と比べたら、やっぱり生麺の方が旨いから、食堂や商店も生麺を注文するようになってな。それでうちも手打ちで作ることにしたんや。
やけど、機械と手打ちの両方をする時間はない。素麺よりもうどんの方が需要があったから、思い切って機械麺は止めにした。機械は業者に二束三文の値段で引き取ってもらったで。
うちらのように素麺を作るのを止めてしもうた製麺所は当時、そこそこあったんとちゃう? それが生麺のうどんに押されて。それ以前は、うどんと同じくらい素麺もよく食べられとった。戦後すぐの頃は、うどんと一緒に素麺も官製品として配給制で扱われとったし。