夏には冷やしうどんも
- 最も古いうどんの記憶は?
- 祖母の家で食べた一杯です。子どもだった昭和30年代、祖母の家が紺屋町にあり、遊びに行くといつもうどんをご馳走してくれたことを憶えています。麺は製麺所で買っていたもので、当時の日銀高松支店、今は高松市美術館が建つ辺りに店がありました。
- 当時の宮脇町でうどんが食べられる店は?
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マルナカの宮脇店から石清尾八幡宮へと向かう通り沿いには、当時、うどんを食べられる食堂がいくつも建ち並んでいました。花クラヤ書店のすぐ横にあった「かさい」さん。「かさい」さんからもう少し、石清尾八幡宮寄りにあった「ふじや」さん。そして、八幡通りから南側にあった「つたや」さん。
店の雰囲気や規模はそれぞれ違いましたが、うどんをはじめ、中華そば、ばら寿司など提供するメニューの内容は似たようなものでした。夏には冷やしうどんやかき氷が登場したのも同じです。
昭和30年代の後半には「主婦の店」というスーパーも誕生し、テナントでうどん屋も入っていました。その店のうどんには揚げ玉が入っていて、とても新鮮だったことを記憶しています。
- 製麺所はありましたか?
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「かさい」さんの横が製麺所でした。打ち立てを求め、でき上がりの時間を狙ってよく買いに行きましたよ。茶色いハトロン紙に麺を包んで渡してくれました。
だいぶ後になり、店に張り出されていた案内で知ったのですが、製麺所内でうどんを食べることもできたようです。
高松繁華街の喫茶店には、メニューにうどんがあった
- 食堂や製麺所以外でうどんに触れる機会は?
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あとは、中学生(紫雲中学校)の時に家庭科の授業で打ち込みうどんの作り方を学び、高校生の時(高松南高校)に学食でうどんを食べたくらいでしょうか。コロッケをのせて食べるのが生徒達の定番でしたね。
結婚適齢期になり、恥ずかしさからうどんをすすんで食べることを遠慮しましたが、友人達と行き始めた喫茶店でメニューに「うどん」の文字を見つけると、後ろ髪を引かれました(笑)。
「アズマヤ」のそれは有名ですが、八本松交差点のそばにある「不二の屋」や、当時は青果店の「三びきの子ぶた」が営業していた「喫茶エリート」、そして高松書林の上にあった喫茶店でうどんがあったことを確認しています。高松書林の上にあった喫茶店のうどんはなぜか、「たぬき」という大阪風のメニュー名でしたが(笑)。
スケートリンクに併設していた食堂で、懐かしいうどんの味に遭遇
- 食堂や製麺所はいつ頃までありましたか?
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昭和50年代の半ばになると、食堂はもうなかったはずです。製麺所は息が長くて、10年ほど前(2007年頃)まで営業を続けていました。
ちなみに、「かさい」さんは宮脇町の店を畳んだ後、国際ホテルの中にあったスケートリンクに併設する食堂を切り盛りしていたようです。子どもが小さかった頃、スケートリンクへ遊びに行った時に、「かさい」さんを見掛けました。滑り終えた後、その食堂のうどんを食べましたが、子どもの頃に親しんだ味のままでした。懐かしかったです。