小麦粉は納屋で一斗缶に保存
田んぼや畑を1町6反(約1.6ヘクタール、甲子園球場のグラウンドの約1.23倍)も持っていた、大家族の農家の娘として生まれました。子どもだった頃の昭和20年代の多肥は、今のような住宅地ではなく、見渡す限りの農地。隣町の太田や林町も同様、高松空港があった場所は荒れ地で、土筆や花などを取りに行ったのも懐かしい想い出です。
家にはあまりお金はありませんでしたが、年がら年中、畑で野菜を作っていたために食べることには困らず、幸せにも空腹感を感じたことはありませんでした。今にしてみれば恵まれた環境だったのでしょう。時折り「食べ物を分けて欲しい」と家に見知らぬ人が訪れ、子どもながらに不憫に感じたものです。配給制だったために、食べ物の個人的な売買は禁止の時代。農家から仕入れた食べ物が警察に見つかり、とがめられている姿を目にしたことが何度かあります。思い出すと、今でも胸が痛みますね。
余談ですが、当時この界隈は大根やスイカの割と知られた産地で、今では珍しくなったさつきび(サトウキビ)の畑もよく見掛けました。おやつにもさつきびの茎はよく登場して、味がなくなるまでしがみ(かじり)ましたよ。もっとも、茎よりも精製した砂糖の方が美味しかったので、しのべてある(収納している)納屋に忍び込み、つまみ食いしたこともしばしばでしたが(笑)。納屋には収穫した小麦を製粉し、うどん作りの材料にしていた小麦粉ももちろんありました。小麦粉の入った一斗缶が、鈍色の怪しい輝きを放っていたことも記憶しています。
自転車の荷台に小麦をのせて、10kmほど離れた製粉所へ
小麦の製粉をしてもらっていたのは、三木町の藤井さん(現在の藤井製麺)の店です。家から店までたいぶ離れていましたが、自転車の後ろの荷台に大きな布袋に入れた小麦をくくりつけ、父が定期的に通っていました。一回に持って帰る小麦粉の量は20kgほど。相当な量です。製粉は近所の太田農協でもしてくれましたが、父がなぜ藤井さんまで足を運んでいたのかはわかりません。ひょっとすると、手間賃が安かったのでしょうか。
夏の暑い日も打ち込みうどんが主食
その小麦粉を使って、母は毎日のように打ち込みうどんを作りました。夏の暑い盛りも関係なく、アツアツの打ち込みうどんです(笑)。そして、手間暇を掛けずに仕上げるのが一般的な打ち込みうどんのはずですが、生地を作る時はいつも足踏みまで入念に行っていました。台所の板の間で、鏡餅のような白く透き通ったうどん生地の上に布とゴザを被せ、後ろ手に組んで踏むのです。その作業は、子ども達の遊びに代わることもしょっちゅうでした。
打ち込みうどんの鍋に入っていた具は、タマネギやじゃがいも、かぼちゃなど、畑で作っていた季節の野菜ばかり。鍋を沸かしていた燃料も、麦わらや籾殻、新豆の軸など畑で穫れたものを利用しました。田畑の恵みを無駄にするところは何もありませんでしたね。夏前には、田んぼの井手で捕まえたどじょうも具に加わりましたから(笑)。当時、小学校の給食にも生ぬるいダシを自分で注ぐかけうどんが出ましたが、家の打ち込みうどんの方がずっと美味しかったです。
田植えのくたびれ直しは、うどんで
毎日の食生活に欠かせなかった打ち込みうどんですが、半夏生と法事のときだけは形が崩れていない、ツヤツヤの麺に出会えることができました。
半夏生では、田植えを手伝い合った近所の人たちと「くたびれ直しのうどん」と言いながら、鰆の押し抜き寿司と一緒に。法事では、豪華なお膳が並んでいるにも関わらず、「おうどんはいかがですか?」の言葉に誘われ、列席者がその一杯を求めました。
いずれの日も、かけうどんやつけうどんが出ましたが、「くたびれ直しのうどん」と「おうどんはいかがですか?」の言葉は、それぞれのうどんの表情とともに印象に残っています。
家でうどんを打っていたのは、昭和30年頃まででしょうか。近所に製麺所や八百屋が建ってそこで麺を買うようにり、台所に備え付けてあった麺棒を見掛けなくなりました。