専門店が登場する以前に、うどんが食べられる食堂があちこちにあった
伏石が今のように宅地化される以前、地域一帯が田んぼや畑ばかりだった昭和20年代。今でこそ、当たり前のように見掛けるうどん専門店は一軒も存在しませんでした。当時、うどんが食べられる場所といえば食堂が一般的で、うどんは中華そばやカレーライス、ばら寿司、いなり寿司、丼物といったお品書きに混じる食べ物の一つ。特別な扱いではありませんでした。
近所には「野沢」さんや「小川」さんという名前の食堂があり、昼は勤め人が毎日のように利用していたものです。メニューと一緒にビールやコップ酒がテーブルに並ぶことも珍しくありませんでした。
記憶に残っているうどん(のダシ)は、見た目にもわかるほど今よりもずっと薄味。それは当時の食堂のメニュー全般に当てはまります。優しい味と優しい雰囲気が特徴の食堂は、専門店の登場と入れ代わるように消えていきました。
戦後、製麺所や八百屋が登場
うどんを食べられる場所は食堂しかありませんでしたが、麺を買える場所は製麺所と八百屋の二つがありました。伏石では「松本」さん、隣の松縄では「三好」さん、太田では「馬渕」さんなどが戦後、自宅の一角で製麺所を開店。その製麺所から麺を仕入れて一般客に販売していた八百屋も、この辺りではほとんどが戦後に登場しました。
何を隠そう、伏石街道で初めて誕生した八百屋は私の父が手掛けた店です。自宅の納屋を改装して、ようよう開きました。ボンネット型バスが軒をかすめながら伏石街道を往来していた、昭和29年(1954)のことでした。
うどん玉がせいろごと飛ぶように売れた年末
父の八百屋はそこそこ繁盛し、うどんの麺もよく売れていたようです。伏石の「三好」さんや、街の製麺所から毎日のようにせいろでうどん玉を仕入れ、年末といった繁忙期には100枚ほど売れたこともありました。一枚のせいろに20玉が並べられていましたから、実に2000玉が売れたことになります。そばの値段が高かったということもありますが、当時はうどんを食べて年を越す人がこの辺りではとても多かったのです。
農作業に合わせて製麺所を開放!?
買い物客は農家の人たちが中心でしたが、普段でもせいろを一枚や二枚、買って行くことはしょっちゅう。法事や祭りなど、自宅に大勢の親戚縁者が集まる際には必ず、みんなでうどんを食べていました。また、田植えが終わった半夏生の時も、「くたびれ直し」と、一緒に作業を行った近所のみんなでうどんを口にしていましたよ。
田植え前に行う5月の用水路の掃除でも、うどんが欠かせませんでした。掃除の場所の近くに製麺所がある場合は直接、店で食べることもあったようです。当初、製麺所内でうどんを食べることはできませんでしたが、農作業の状況や農家の人たちの要望に応える形で徐々に開放していったのではないでしょうか。
ちなみに玉売りの際は、檜の皮を薄く削ったものにうどんを入れて渡していました。ビニール袋がまだなかった頃。客が持参した桶やボウルに麺を入れて販売することも日常的でした。
農協でも製粉をしてくれた
麺を店で買うのではなく、自宅で小麦粉から作る機会も当時は多く、小麦を小麦粉にしてくれる製粉所も存在しました。今里に「前川」さん、花の宮には「かわにし」さんという方が戦後に製粉所を開き、また太田の農協でも製粉作業をしてくれました。当時、うどんが食べられる専門店はありませんでしたが、今よりもずっとうどんは生活に密接でしたね。