米屋の前はまんじゅう屋
- お店は昭和17年に創業とお伺いしましたが。
- 米屋としてはね。それ以前は、うちのじいさんが饅頭屋をやってたんです。昔は饅頭屋さんって言ったらものすごく需要があったらしいで。その頃は、ここから100メーターくらいのところにも饅頭屋があった。
- 饅頭屋としては、どれくらい昔からやってたんですか?
- うちのじいさんがうちに養子に来たんはいつかいの(笑)。じいさんの長女が岡本の「桑島製麺」のおばさんやけど、そのおばさんが大正10年くらいの生まれやから、じいさんは明治の生まれやろうけど。
- その饅頭屋はずっとここで?
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ずっとここです。昔はこのあたりはいい場所だった。ここの前に琴参のバス停があってね。昔はこのあたりが陶の町中では繁華街というか、人通りがありました。そこに農協があるでしょ? そこが陶の村役場だったんです。
それで、じいさんは非常に真面目に商売をやっていて村長さんに気に入られて、村長さんに「ぜひ米屋をやってくれ」と勧められて米屋を始めた。その頃は米が配給制だったので、誰でも米屋を開業できるわけではなかったんでね。
小麦粉の仕入れ販売をしていた
- こちらで饅頭を売ってた時には、小麦粉も扱ってたんでしょうか?
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聞いた話では坂出の「日清製粉」、あそこから粉が来とったみたいですよ。それとやっぱり地の粉も農協で精米したり精麦したりもしよった。その精麦も下に石臼みたいなんがあって、モーターで回して挽いてたんで、そんな粉も使ってたんとちゃうかと思うんやけどな。
「田村」のうどん屋からも粉を買うとった。「田村」も昔は自分のところで粉にしよって、じいさんが「田村から買ってきたうどんは黒かった」って言ってました。ちょっと蕎麦みたいな感じ。皮のふすまというか、小麦の表面の黒っぽいのが残ってるような。
そういえば、「高松の米屋ではあんまりうどん粉が売れん」言いよったな。うちはここにうどん粉積んであるんですけど、前に高松の米屋さんが来た時に「こんなようけうどん粉売れるんですか?」って言ってました。
- 町中よりは田舎の米屋さんの方がうどん粉が売れるってことでしょうかね。
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事情はわからんけど、とにかくうちは年末になったらうどん粉、ようけ出るなあ。最近は自分で家でうどん打つ人が少なくなったから減りましたけど、打つ人は「この粉でないといかん」言うて指定で来るんです。うちは今、木下製粉の白薔薇っていう粉ですけど、昔は香南町とかからもいっぱい買いに来てましたわ。最近ではほとんどなくなってきたけどね。
二年前までは5kg袋で売ってたんです。今は2kg袋の三つ入った箱入りで、去年から出してます。道の駅でも小さいん売ってますわ。それが35年か40年くらい前までは、5kg袋でなくて25kgだったんです。
- 25kgっていったら、結構な量のうどんになりますよね
- けど、みんな25kgで買うて帰っりょった。それを1カ月~2カ月で使って、天ぷら、こっちでは「あげもん」ていうけど、あげもんをしたりとかな。うどん粉であげもんしたらおいしい。家族が少ない人は25kg袋を小分けで計って、2kgや5kgで持って帰っりょった。米にしても昔は15kgの袋で売ってたけど、だんだん小袋の需要が多くなって、今はもう、うちは10kg袋もやめとんですよ。
家で食べる分だけ、じいさんがうどんを打っていた
- お宅ではうどんは打ってましたか?
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うちのじいさんは、うどん打つのうまかったなあ。何しても器用な男やったんやな。昔、台所で晩にトントントントンいってうどん切ってる音がしてたんが記憶にありますわ。でも、そんなしょっちゅうはなかったな。小さい丼の中でうどん練っりょった。ほんまにそん時食べるくらいの量だけ。
その頃はじいさんも年とってたんと、米屋の方が忙しかったけん。米を売る方ではなくて、精米が忙しかったん。あと、小麦を挽いたり、蕎麦を挽いたり、お団子の粉にしたり。店に製粉機っていうのがあってな。私も学校を出てから何年かはそれをやった記憶がありますよ。
- 家で食べるうどんは打ち込みでしたか?
- だいたい打ち込みでした。気温の差というか「夏と冬とはぜんぜん水加減塩加減が違うんや」という話は聞いたことがある。
- この近所にうどん屋さんはありましたか?
- あるのはありました。古いのでは、「赤坂」の手前にあった「たまいち」が昭和50年台くらいまでしよったんと違うんかな。天かすとダシだけのうどん屋。それから「赤坂」はあんまさんやけど、元々は精米やった。今はもう亡くなってるご主人が他んとこで素麺をしよったんですよ。とにかくもう偏屈な人やった(笑)。その人がしよって、こっちに帰ってきたのが20年くらい前かな? この近辺にはうどん屋さんいうのはようけはなかったと思う。「田村」は昔からしよったけどな。
- 誰でもうどんを打てた時代だったからですかね。
- そうそうそうそう。みんな家で打てよったからな。昔は消費者のうどんに対する感覚が今とは違うかったからね。
綾南町陶は米、麦、タバコの産地だった
- 最近は小麦や米よりも大麦や裸麦系がモノが足らなくてね。うちも大麦が足らなくなるかもわからんです。普段お米買いに来ないような若い女性が来て、ピッと取って「コレ」って言って大麦を買って行くんです。
- スーパーとかでも小口の裸麦や大麦普通に売ってますもんね。
- この辺は、県外の人とか他の地区の人とはうどんに対する感覚がちょっと違うかったと思うな。綾川筋で水車が何箇所かあったはずなんや。橋を渡ったところのすぐ左のところ、道の南側の川沿いのところに米屋があったんですよ。精米やってる水車があったんです。中を見てはないんやけど、水車があったんは覚えとる。
- 滝宮天満宮から琴平方面に行ったらすぐある橋ですね。
- 子供の頃は、麦畑が今よりだいぶ多かった記憶がありますね。たぶん裸麦だと思う。二条六条の大きいやつやな。結構この裏とかも、米がなってない時期は麦やったっていう記憶があります。「長いこと麦見んなー」思いよったけど、ここ最近また麦が増えて来ましたけどね。補助金やなんやで。あとタバコも多かった。
- タバコもやってたんですか。
- タバコは真夏のいちばん暑いときに最終の収獲やったから、体に負担がかかってきて、「なんぼ儲けがよくてもできんわ」言うてみんなやめていった。農協の前にタバコ会館いうんがあって、収納所もあった。いまの産直ですわ。
うどんで接待はなくなった
- 法事の時はうどんは出てましたか?
- 出るとこと、もうやらないところと両方ある。お供えを分けて持って帰らせるところでは、その中にうどん、乾麺とか生のうどんとかを入れて持って帰ってもらってる。善通寺の「宮川製麺」てあるでしょ。あそこのおばちゃんがお客さんに話っしょった。持って帰ってもらううどんは初めは多かったんが11玉になって、7玉になって、3玉になったって言いよったわ。
- 法事の案内にうどんは持っていってましたか?
- こっちではそこまではやってないね。打ちは浄土真宗だけど、うどんは法事の日だけだった。最近は法事も家でなくて料理屋さんとかに行くから、うどんで接待することがなくなったな。弁当屋さんも「法事のお膳がなくなって商売がつらい」って言ってましたね。