伯方島の小学生は、学校を抜け出してうどんを食べていた
生まれはな、坂出の京町。昔は東新通町(ひがししんとりちょう)言よったんやわ。坂出は全部、町名変えたんや。西新通町いうんもあったよな気がする。
最初は母方の実家にマスオさんみたいな感じで同居しとったんやけど、3才か4才の時、父親の転勤で、家族で愛媛県の伯方島に引っ越したん。伯方の塩ってあるやん。アレ作んりょるとこ。父親の仕事は専売公社(現・日本たばこ産業株式会社)で塩の方やったきに、そこへ転勤になったん。
引っ越しは陸路じゃなくて、坂出港から船で島へ行ったんよ。すごいやろ。船一艘借りて、タンスから人間からそれに積んで。こっちへ帰ってくる時もそれやったんで。その時のことは、カモメが飛んびょんを初めて見たぐらいしか覚えてないけど(笑)。
ほんで伯方島の小学校へ入学したんやけど、そこの学校は給食なかったんや。ほやけんみんな、弁当かパンなんな。けど何も持ってきてない子らがおって、その子らは学校近くの「さらさや」いうな、旅館と食堂しよった店に、学校から出てそこへ食べに行っきょったんよ。小学1・2年生が、せんせ(先生)の許可も得ずやで。
私も1年の時に「さらさや」でうどん食べたわ。それが店で初めて食べたうどんかな。1年生やから、うどんぐらいしか安いん食べれんやん(笑)。そいでな、3年生の時に他所から赴任してきた原先生が「こんな学校、見たことない。禁止しましょう」言うて。そらそうや。今考えたらすごいやろ? で、ダメになったん(笑)。それまでは出前もしよったんちゃうかな。ほやきん、島でおる時はあんまりうどんと関わりはなかったん。
夏休みの帰省時に、お爺さんがうどんを打っていた
転勤に行っとってもほら、夏休みやあんなんで実家に帰ってくるやん。両親の実家が2人ともこっち(坂出)やけん。小さい時は毎年帰ってくる時に、母方のお爺はんがうどん打っちょったわ。昔は家みんな打っちょったんで。家に延ばす道具はあったけど、あとは覚えてないわ。
昔の家いうたらみんな打っちょっるけん、延ばす棒や板はみんな持っとったんとちゃう? お爺はんは農家やなくて商売しよったから、粉はどっかから買うてきよったんやろね。ほいで足で踏む。あんなん誰でも素人でもできるやろ? で、こう延ばして。
その時に、ドジョウうどんしよったんよ。お爺はん、あんなん好きやったきに。ドジョウは捕まえてはないな、買うてくるいうて。町やから。ほんでドジョウを「食べ」言うて。私やよう食べなんだわ。恐ろしいいうんか、何か気持ち悪いし。骨固いやろ? なんかひっかかるやろ。ドジョウうどん以外はよう覚えてないけど、昔やけんたぶん「生じょう油」やわ。ダシも炊かずに、しょう油かけて食べよったと思う。
高校時代に小遣いで食べた坂出のうどん
ほんで、また父親の転勤で香川へ帰ってきたんよ。坂出まで船で。ちょうど東京オリンピックの開会式の日、1964年10月10日。ほだきん、開会式見てないんよ。
専売公社が高松の朝日町の、今、中央病院が建っとるとこで、官舎が栗林にあった。そこに帰ってくる予定やったんやけど、母方のお婆はんが「身体が悪いけん、ご飯やできんけん。また帰ってきてくれ」言うて。ほんでな、それでまた坂出で同居になったん。それが中1や。坂出の東部中学校へ転校して帰って来たん。
その頃はお好み焼きによー行っきょったな。うどん屋は行かんと、お好み焼きの方が美味しかったけん。それにお好み焼きってものすご安かったんよ。うどんよりもな。お好み焼きとうどんを一緒にしよるとこもあったけど、うどんよりはお好み焼きを食べよった気がするなー。
それから中3の時(昭和42年)に、その近くの坂出市の旭町へ家建てて引っ越したけん、母方の実家からは出たわけな。うちは普通の家やったけん、家族で外食とかほとんどなかったんよ。商売人の子の友達はな、親が作れんけんいうて外食行くとかいうて、羨ましかったで。寿司屋行くいうて。「寿司屋ってどんなん?」とか思いよったん(笑)。
本格的に外食しだしたんは、高校になってからや。高校は坂商(坂出商業高校)な。当時は専門のうどん屋いうのはあんまり無かって、うどんはたいてい食堂に置いとった。ほんで、うどんと寿司を置いとる食堂みたいなんが高校から駅(JR坂出駅)までの道に何軒かあったけん、そこで帰りにうどんを食べたことがあるわ。
かけうどんいうんかな、こんなカマボコとか乗っとるぶん。カレーうどんもあったような気がする。うどんの汁溶いたんか、なんかしゃん薄ーいやつ。玉ネギとカマボコぐらいししか入ってないぶん。南蛮みたいな。もうあの店はないやろ。店の名前はなんかいよったけど忘っせた。
あとは、商店街のがっこ(学校)の側の、誰でも行けるみたいなとこにうどん屋があった。そういや、こないだ駅(JR高松駅)にできた「杵屋(本店は大阪)」な。坂出の「杵屋」で大阪からわざわざ1週間毎に来て修業したとかいうてうまげに書いとるけど、昔、坂出の港町に「杵屋」いううどん屋があったんやって。そこも製麺屋でね、ちょっと高ーい感じのイメージの店で、高校ぐらいやけん、一回入ったかな。
坂出の高校生にも有名だった高松のアズマヤ
うち(私)らは高校の時にね、バレーしよったやん。で、総体とかあんなんで高松に来るやん。ほだら弱かったけん、大概初めの方で負けるんや。ほんでみんな帰りにな「寄って帰ろう」いうて、「アズマヤ」に寄って帰んりょったん。喫茶店やのにうどんが食べられる店。食べよったんは、うどんとローゼのセットな。
ローゼはシュークリームの皮を上下でカパッと開けて、中にソフトクリームの美味しいんが入ってるん。ほんでちょっとフルーツも入ってんの。美味しいんよ。高松来るんはそれが楽しみで、しょっ中食べよった。うどんも美味しかったもん。当時値段は200円ぐらいと違うん? それが私らが16、7の時。「アズマヤ」寄って帰んりょった。汽車に乗って。やっぱり「アズマヤ」は坂出の高校生にも有名やったで。そうそうそう。懐かしい。
お爺さんが高松駅ホームのうどん屋の丼を持って帰った
うちが坂商を出た後に就職したんは三越。ほやから汽車で高松に通いよったん。昔の高松駅の構内に立ち食いのうどんがあったやん。汽車の切符払ろて連絡船行く時に、階段上る手前のこっちのとこに。連絡船の中にもあったやろ? アレをな、大阪や遊びに行って帰りに食べるん楽しみで。アレ、なんかおいしに感じるんな。
駅の立ち食いで思い出したけど、うちのお爺はん、あそこの丼持って帰っとんで。あの丼、「連絡船」か何か書いとる何か独特なうどん鉢やったわ。プラスチックでないで。唐津みたいなん。ほんで、それが家にあるけん「あれ? これどしたんやろか」言うたら、「お爺が持って帰った」って(笑)。どないしたんかは知らんけど、ダシ全部飲んでカバンに入れて持って帰ったんちゃうん。ヒドイよね。盗んだいうより、あれかいの、それ込みの値段やと思たんかいの?
そななことしよるからあの人、昔、関西汽船の中で大金を盗まれとんで。大阪へ商品を仕入に行っきょったんやけど、昔やから現金持っていくんや。ほんでお金入れたカバンを枕にしてガーガー寝よったら、シューってやられて。起きたらお金がないんやて。船の客を全部調べてもろたけど、結局犯人は捕まらんかったって。丼や盗むけん、バチが当たったんやわ(笑)。その丼は、家を建て直した時に捨てたんちゃう? 今あったらおもっしょかったやろなあ。あ、名前は出したらいかんよ。まだ町内におるんやけん。丼盗んだいうのは書いてもええけど(笑)。
商店街の角には有名な食堂があった
三越に行っきょった頃は自分のお金でなんぼでも外食食べよったけど、うどんは元々好きでなかったんかな? うどん屋はそなに行っきょらなんだ。うちらはレストランやラーメン行っきょったから、近くのうどん屋は覚えてないわ。
そうそうそうそう、三越の横の、今、ヴィトンが入っとるビルがあるでない。そこが有名な食堂やったんよ。「タムラ食堂」とか言うん。よー宣伝しよったよ。新聞やTVかなんかももしよったん違うん? 派手にしよったん。昭和の47、8年頃。たぶんうどんもあったんやろね。その食堂が閉めた後は、マルヨシの衣料店になったんで。食料品は売んりょらん店。その後、三越が拡張して三越のビルになった。
うちらはライオン通の、すぐ入って角っこか、その向こうやったんかわっせた(忘れた)けど、なんとてその辺にあった「レストランとらや」いう洋食屋へよう行っきょった。ここも有名なかったんで。そういえば、そのすぐ近くに「更科」や「川福」があったのに行ってない。特に「川福」は高~いイメージで、そういう構えとるところは行かなんだ。フェリー通りの「かな泉」もそうやわ。高松町の「かな泉」にはカレーうどんとか食べに行っきょったのにね。あの店ももうないんな。全部? あらら。
坂出駅そばに初めてできたセルフ店
ほんで18から20まで三越行って、辞めた後に坂出の建設会社に入ったん。そこへ勤めよる時にな、坂出にセルフうどんが初めてできた。会社のお偉いさんかなんかが「駅のそばに変わった店ができとる」って言いよったわ。今考えたら、坂出にセルフができたん遅いね。高松はたぶんあったんやろうけど。
で、「どんなん?」て聞いたら「自分でな、するんや」言うから、すぐにうちは行かんかった。店の場所は、駅の南手やったわ。坂出商業や坂出高校のある学園通りみたいなんがあるやろ。そのちょっと駅に近い方。ちょっと経ってから友達と行ったら要領分からんで、人のするのを見てなんかしたような気がするわ。店の名前は全然覚えてない。それやって一回かそこら行ったぐらいで。
その建設会社も勤めだして2年ぐらいした時に、ダンナとお見合いして、ほいで辞めて結婚したん。こやって考えると、うどんほんまに食べてないな、うち。結婚してから高松に来てからの方が食べとるかも。なんでやろな。やっぱり家で、親がうどん食べさし回るけん、外で欲しなくなったんかも知れん(笑)。
それと余談やけど綾川の「松岡」の大将、うちらの2つ上の先輩なんで。野球部のピッチャー、エースやったんで。「松岡」って名前を聞いた時に「えー」と思って大将を見たら、顔がそんな顔やけん、絶対そやな思たん(笑)。