家にせいろでうどん玉を持ってきてもらっていた
- 昭和30年代から40年代の丸亀市中心部のうどん事情をお聞かせください。まず、米屋町のご自宅でうどんは打ってましたか?
- 打ってませんでしたね。おうどん屋さんで買って来てました。うちは昔から事業をやっていて、住み込みの人とか工場の人がうちでご飯食べてたんです。だからまとまった数になるので、おうどん屋さんに注文してせいろで持ってきてもらっていました。せいろは上にすだれみたいなのがかかってましたね。それで、夕方にせいろをまた取りに来ていただいてました。
- それをどうやって食べていましたか?
- 家に鍋焼きうどん用の小さいお鍋がいっぱいあって、それを一つずつ煮立てて、冬は鍋焼きとか、湯だめとか出してました。ダシは自家製でした。
丸亀に「ウラシマ」が3軒あった
- 取り寄せてた製麺所はご近所さんですよね。
- 近所のウラシマさんでした。
- ウラシマさんというと、すぐ近くのフェリー通りのところですか?
- いや、ウラシマさんていううどん屋さんは丸亀に三軒あったんですよ。フェリー通りの角の高架の下のところにある「浦島」さんは、丸亀製麺(本社丸亀市城西町、あの全国チェーンのお店ではなく、昔から丸亀市に本社のある製麺所さん)の林さんいう人がされてました。今は社長さんは別の人に代わってます。もう一つ、浜街道の方に「浦島製麺所」さんというのもありました。で、それとは別に私が買いに行ってたのは西平山町の「浦志満うどん店」でした。
- 3つもウラシマがあったんですか。「浦志満うどん店」は、うどん店ってことは中で食べられたんですね。
- 食べられました。
- どんなメニューがあったか覚えてますか?
- 「うどん(かけうどん)」と「ざる」と「湯だめ」、あと「中華そば」もありました。
- 「かけうどん」ではなく「うどん」というメニュー名だったんですね。
- はい。「ざる」も「湯だめ」も全部うどんなんですけど(笑)、「うどん」といえば「かけうどん」でした。「うどん」の具材はネギとカマボコだけで、ショウガがテーブルの上に自分で擦るように置いてました。
- それが昭和40年代くらいですか?
- えーと、何年前くらいまでしてたかなあ。おじいさんが亡くなるまでやってました。おじいさんがおか持ちで配達してたんですが、配達してる途中で事故で亡くなったんです。それまではいつも自転車で持ってきてくれてました。せいろで持ってきてもらうときもあるし、家族だけが食べるときはおうどんの玉だけ持ってきてもらってました。おうどん今日は3つとか4つとか言ったら持ってきてくれてましたね。
- けっこう配達はマメにやってたってことですね。
- マメでしたね。このあたりでは配達してくれるおうどん屋さんは「浦志満うどん店」しかありませんでした。素朴な味でしたね。麺は均一な太さじゃなくて、端のほうがひゅーっと細くなるの。今と違って、端っこの方も切らずに全部出してたんでしょうか。
大学時代は香川から袋麺を取り寄せていた
- 生まれもお仕事もここということですけど、他でうどんについて何か覚えていることはありますか?
- 大学の時だけは京都にいたんですが、京都ではお店でうどんは全然食べなかったですね。だから、こっちの宮武うどんの真空パックを送ってもらってました。給食のうどんみたいな麺。ビニール袋に入って四角いままみたいな。粉のダシがついてたんですが、口に合わなかったのでダシは自分で作ってました。
法事は案内時と法事の直前とおみやげにうどん
- 法事でうどんは出ましたか?
- 出ました。私の家は浄土真宗でしたが、法事が始まる前にまずうどんを食べます。うどんの量が丼一杯だったら大きいので、3分の2くらいに減らして出すって言ってましたね。そのちょっと少なめのうどんを食べて、それからお経を読んで、そのあとでお膳が出ました。
- 法事のおみやげにうどん玉は渡してましたか?
- 郡家(丸亀市の郊外)の親戚が法事の案内の時に必ず、うどんを5玉とか10玉とか持って案内に来るんです。あの辺の風習だって言ってました。親戚とかご近所さん、法事に来てもらう人に「何月何日に法事します」って言ってうどん玉を配る。うちにも持ってきてくれてましたよ。
- 法事から帰る時に、おみやげにうどんは?
- それも渡してました。生のうどん玉を5玉とか、大きいパックに盛り上がるように入れて、それを紙で包んで渡してくれました。
- そしたら、大きい法事となったら100玉、200玉と必要になりますね。
- そうそう。「早くから製麺所さんに頼んでおかないと」って言ってました。うちと母のところは名字が違うから、5玉と5玉で10玉くれてたんだと思います。案内の時も10玉、おみやげも10玉。いつも「こんなようけ?」って思ってました(笑)。
- この辺り(丸亀市中心部)はそういう風習はなかったんですね。
- この辺りは普通にハガキ出したりとかでお知らせしますね。
丸亀市中心部のうどん事情いろいろ
- あと、丸亀市中心部のうどんで何か記憶はありますか?
- 通町商店街の中の「寿美屋」さんは有名でしたね。それと、本町の商店街の百十四銀行の手前の左手のところにあった、確か「中村食堂」って名前の店でもうどんが食べられました。
- 「寿美屋」さんはよく聞きますね。
- 銀座街ってわかりますか? 駅前を東西に車が走るアーケードのところの一本北側の通り。いま「ガレリア」っていう名前になっているところ。あのあたりにはうどん屋さんがいっぱいあって、船が着いたとか電車降りたりした人はみんなあそこでごはん食べてた。当時はあのあたり全部、飲食店でしたね。
- ちょっと古めかしい店がたくさん営業してる通りですね。あのあたりが戦後の復興が早かったというのもターミナルだったからなんですね。
- 今の中山病院のところに「青木食堂」っていううどん屋さんがあったんですが、郡家に住んでる一家が農作物を市場に収めた帰りに映画見て、そこでうどん食べて帰るんがレクリエーションだったって聞いたことがあります。お米は普通に農協に出すけど、野菜とかは市場に直接持っていかなくちゃならなかったそうで。それを年に何回か市場に納めるのに親父についていって、帰りに映画観て「青木食堂」のうどん食べるって言ってましたね。
- 商店街に行って映画とうどんって、昔の高松の商店街と同じパターンかもしれないですね。
- 丸高の子は、お城の前のうどん屋さんによく行ってましたね。あと、こないだ「西森」のうどん屋がおいしかったって言ってる人がいましたね。土器川の横にあったところです。
- うどん屋に行くと叱られたって話をたまに聞くんですが、学校からは怒られなかったんですか?
- うどん屋は大丈夫でした。喫茶店はダメでしたね。
- 当時の喫茶店は”桃色遊戯”の始まりだとされていましたから(笑)。
うどん屋の風邪薬が丸亀にもあった!
- うどん屋で風邪薬を売ってたらしいという話があるんですが、ご存知ないですか?
- ああ、うちのお母さんから聞いたことあります。病院行って、帰りにうどん屋さんで「うどん薬」って言って、生卵一個注文して、うどん薬飲むって言ってましたね。当時は鶏卵は高級品でした。
- 丸亀でも「うどんやの風邪薬」があったんですね。
- 「風邪引いたら卵買うてくれるんや」って言ってました。「うどん薬と、おうどんに卵入れてくれてなあ」って。「風邪引かんかったら卵が食べられん」って言ってましたね。
連絡船うどんは格別
- 今まで食べた中で印象に残っているうどんはありますか?
- 大学の時に食べた連絡船のおうどんですね。あれはすごく美味しいというわけではないんですけど、必ず食べないと気が済まなかったですね。今になって考えたらカバンとか荷物ぜんぶ席に置きっぱなしにして、みんなデッキに上がってうどんコーナーに直行するんです。不用心ですよね。みんなそこで立って食べるんですけど、後半に行ったら必ず売り切れてましたから、乗ったらすぐ行ってましたね。
- あの潮風が強いデッキで立って食べてましたよね。
- そうそう。京都から久しぶりに帰る時は必ず食べてました。帰りだけ。行きは食べなかったですね。
- みなさんそうおっしゃいますね。「香川に帰ってきた!」っていう実感と共に食べるうどん。
- あれは美味しいとか美味しくないではなく、格別でしたね。