昭和30年代の丸亀の学校給食のうどん
小学生のころ(昭和30年代前半)は丸亀の土居町に住んでいて、城北小学校に通った。当時、市内では一番大きい小学校だったように思う。団塊の世代の真ん中に当たる年代で、白、青、赤、黄、緑、紫の6組があった。1学年上も6組、1学年下が5組、1クラスに50人くらいいたように思う。給食はコッペパンと脱脂粉乳が定番で、クジラの竜田揚げや焼きそば、白身魚のフライ、ひじきの煮たものなどがよく出ていた。
土曜日は半ドンといって、昼から休みになっていたが、給食を食べてから家に帰っていた。そのメニューが毎週うどんだったと思うが、記憶違いだろうか。うどん屋さんがせいろに入った玉を持ってきて、給食のおばさんたちがダシを作って、大きいバケツ見たいな缶に入れて教室まで運んできて、アルマイトのお椀に入れたうどん玉にひしゃくでダシをかけていた。アルマイトのお椀はどれもひしゃげていた。そんなことおかまいなしに、腹を空かせた私たちには、うどんはごちそうだった。ネギと薄いかまぼこだけが入った、今でいう「ぶっかけ」みたいなうどんだったけど、とにかくうまかった。子どもたちは喜々としてうどんをほおばっていた。なぜか、うどんの日もコッペパンがついていた。
昭和31年に、城北小学校に鉄筋3階建ての校舎ができた。1、2階が教室で、3階が講堂だった。残念なことに、私たちは新しい校舎を使わせてもらえず、昔の木造校舎で勉強していた。丸亀東中学校も木造校舎だった。城北、城東、城乾、飯野の小学校から生徒が来るので、当時は3学年で2000人以上の生徒がいた。当然、給食はなかったが、もしあったとしたら、大変なことになっていただろう。当時、県内一のマンモス中学校といわれていた高松の紫雲中学校は3000人以上生徒がいたということだ。そんなわけで、初めて鉄筋の校舎で勉強できたのは丸髙(香川県立丸亀高等学校)に入ってからの話だった。
中学校のころ、うどんは近所の八百屋で玉を買って家で食べていた。うどん屋へ食べに行くことはなく、一六デーの時に町に出るが、うどん屋には行かなかった。
市役所では昼にうどん玉をまとめて買ってきて、醤油をかけて食べていた
社会人になって丸亀市役所に奉職してから、昼前になると先輩から「うどん食べるぞ」の号令がかかった。後輩がみんなの食べる玉数をまとめて、うどん屋にうどん玉を買いに行っていた。うどん鉢は課のすみっこに置いてあったが、ダシはなかった。醤油をかけて食べていた。1玉10円くらいやったかな。日給が400円くらいのころで、週2回ほど食べていた。
うどんは10秒で(!)
昭和42年に、今も人気のうどん店「亀山」ができた。役所入ってすぐやったから忘れもせん。当時は納屋の縁側で食べていた。土器川の土手にあった「西森」はいりこダシが評判で、冷たいうどん(そのまま)に温かいダシをかけて食べていた。10秒くらいで食べる先輩もいた。ゾゾーッ、ゾゾーッと二口ぐらいで食べ終えていた。
毎年、ゴールデンウイークに行われる丸亀お城まつりにも、数年前まで、うどんの早食い競争があった。1玉200グラム前後のうどんを5分間で何玉食べられるかという、うどん王国ならではの名物イベントだった。私の記憶では、大会記録は若い女性で、何と5分で25玉という不滅の記録を残している。テレビにも出たことのある大食いで有名な県外の女性だったが、大勢の観客を前に1玉12秒で平らげた計算になるから驚きだ。何らかの理由で、現在は行われていないのが残念だ。