浄土真宗本願寺派の「おたんや」のうどん
- お寺のお生まれとお聞きしました。
- そうです。浄土真宗の本願寺派、一般には西本願寺派といいます。
- ご自宅でうどんを打ちましたか?
- 時々。お祝い事があるとか、今日は県外からお客さんが来るとかいう時には打ってました。
- 浄土真宗の本願寺派ではお葬式の時にうどんは出てましたか?
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葬式にはうどんは無いです。昔、お葬式で「はなもち」いうんがあってね、子供がみんなお供え持って歩くんですよ。その「はなもち」に行く前に、お膳のあるお客(食事)につくのが子供の楽しみだったんですけど、その時にはうどんが出た記憶はないですね。ごはんでしたね。
亡くなってから1週間目とか1年目に法事があるでしょ。浄土真宗本願寺派にはそういう日にね、「おたんや」ゆうんがあったんです。これは坂出や丸亀での呼び方で、他のところは名前が変わるかもしれませんけどね。その「おたんや」に行きますと、必ずうどんをまず食べるというのが楽しみだったです。特に私は母親が坂出やったから、もう必ずうどんが出よりました。そのうどんが食べられるのが楽しみだった。法事の「おたんや」にはうどんが出ることは出るけど、丸亀の葬式には出なかったですね。
- うどんの思い出で特に印象深いものはありますか?
- やっぱりさっき言った「おたんや」やね。うちの爺さんの母親の里が割と裕福で、自分とこが「おたんや」するいうたら親戚だけでなくてご近所さんも全部呼ぶんや。そこで出るうどんが、かけや鍋焼きではなく湯だめ。湯だめは一番早くて大量に出せるから。その湯だめを子供の時は2杯食べた。ごちそうやから。非常においしくてね。他の家では「おたんや」が来たら、3杯食べさせてくれるというところもあったんですよ。そこも近所の人まで呼んでいた。それはもう楽しみだったんです。法事やのに、うどんうどんで先祖ほったらかしでどこでおるかわからん(笑)。私や浄土真宗やから、坊さんがね「おしょうしん(浄土真宗のお経)」あげるんですよ。これが長いお坊さんは嫌いやったんや。早う終わったら、うどんが食べられるから。湯だめが食べられる。
- それはたらいとかでみんなで食べるんですか?
- いやいや、ちゃんとおかわりさん(運んでくる人)がお膳で運んでくるんです。何人も女衆がおってね。おかわりさんどんどんどんどん忙しく働いててね(笑)。葬式の時はごはんとアラメ(コンブを刻んだようなやつ)と、甘く炊いたお揚げがあって、お汁は無しや。それともう一つ何かあったかな。これが基本やったと思いますわ。
戦前は鍋焼きうどんを「肉うどん」と呼んでいた
- 子供時代に外でうどんを食べに行ったり、買いに行った思い出はありますか?
- 製麺所からうどん玉を買うてくるというのは、戦後の話です。戦前に我々がうどんを外で食べていたのは、点々と丸亀の町中にあった「うどんや」。寿司もあったと思うけど、頭の中に残ってるのはうどんで、今で言うかけうどんが中心です。
- メニューとしての呼び名は「かけうどん」でしたか?
- 「かけ」はようらなんだね(言っていなかったね)。「うどん」の大小でいっきょったかなあ。かまぼこが2枚入っとんですよ。それとネギとね。親と一緒の時は、肉うどんを食べさしてくれた(笑)。戦争中はね、肉うどんは一般的には「鍋焼きうどん」で通ってたんです。鍋焼きうどんというのは、だいたい肉が入っとったから。鍋はアルミニウムで柄とフタがついてて。鍋焼きうどんいうのは最高のごちそうや。親が機嫌よかったら買うてくれる(笑)。味もちょっと甘いダシでね。卵は入ってなかった。私が知っとるんは、肉のせてカマボコ。古い戦前のぶんですよ。
- うどんは日常的に気軽に食べに行く感じでしたか? それともごちそうでしたか?
- ちょっとしたごちそうでしたね。何が祝い事があるとか、町へ久しぶりに出て行って食べるとか。よそに行って食べるといったら、他の食べものよりはうどんやったね。そうや、思い出した。うどん屋にいつも置いとるんが、巻き寿司とバラ寿司。おいなりさんを置くようになったのは戦後やな。うどんと寿司と両方食べられるゆうんが、我々の家ではなかなか無理で。我々子供なんかが行った場合は、おこづかいもろて食べるゆうたらうどんで。これがごちそうですわ。多分、うどん屋に5銭持って行っきょったと思うな…5銭か10銭。たしか5銭時代があったと思う。
- うどん屋さんにおでんはありましたか?
- おでんは見ななんだな。
戦前戦後の丸亀市中心部のうどん事情
- うどん屋さんに学生だけで食べに行ったら、叱られるようなことはありましたか?
- そもそもうどん屋さんがなかったからね。喫茶店なんかはダメでした。
- 成人してからも、うどんは普通に食べてましたか?
- 私はうどんが好きですからよう食べましたね。戦前は自分で打っちょりました。それか近所の寄り合いで打って、皆で食べる。お祭りの時にも食べてました。うどん玉の売り買いというのはあまり知らなくて、戦後になって知りました。うどん玉を買ってきて家で料理して食べるのが圧倒的に増えたのは戦後です。
- そのうどん玉を買いに行ってたところは、玉を売ってただけですか? それとも食べるところもありましたか?
- そうやね、戦後の場合はだいたい両方あったね。あそこはうどん玉売り専門というところもあれば、両方やってるというのもありました。
- おいしかった店とかはありますか?
- とにかく我々にとっては、うどんはごちそうですからね。そうですね、多恵寿(たえず、丸亀市幸町、現在休業中)のうどん屋さんは、よく知られてましたね。それから通町のスミヤさん。これは天ぷらうどんがおいしかった。
- 天ぷらうどんがあったんですね。
- これは戦後の話ですけどね。スミヤさんは、うどんを自分のところで打ってた。バラ寿司は近くの人から仕入れてましたけど。
- 値段は肉うどんとどっちが高かったですか。
- それは肉うどんが高かった。私みたいな中津の田舎者からみたら、うどん屋いうたらスミヤさんと、それから多恵寿と。特に西が多恵寿やったから。その名前は今でも覚えています。それともうひとつは、戦後の復興期は浜町筋のうどん屋。名前はもう忘れたけど、ここでは鍋焼きを食べさせてくれた。あの辺りに映画館の「地球館」もあったしね。
戦後に小麦が増えた
戦争中はお米を作るのはもちろん、片っぽの方ではハダカムギ、たまにそれだけでなく一部分だけ小麦作っじょる家があると。で、戦後になると小麦の畑がばっと増えたという感じがしましたね。戦後すぐでなくて、しばらくしてからね。うどんいうのは贅沢品です。田舎にとってはね。お米のご飯から麦の混じったご飯になって、麦の方が多いご飯になっていくでしょ。そういう時にうどんが出るいうたらごちそうなんですよ。
- うどんの方が麦飯よりもごちそうだったと。
- うどんの方がごちそう。米メシより、また食べもんが違うんですよ。ご飯と、うどんとは違うんです。
- うどんは別腹というやつですね(笑)。
- 別腹です(笑)。