戦時中は家で小麦の脱穀から粉挽きまでやっていた
- 子供の頃、うどんはどこで食べてましたか?
- (主人) 子供の時言うたら、戦前か、事変(戦争)中やの。その頃はもう、昼はお袋がうどんせる(する)んに決まっとったが。家にうどん粉がようけあっての、家で作った小麦を精米(所)に持って行ったら粉にしてくれるんじゃ。その粉で家でお袋がうどん作りよった。わし、小学校に行って昼になったら家に帰ってお袋が作ったうどんを食べてすぐに学校に走りよったが。
- 小学校に給食はなかったんですか。
- (主人) あるもんかい。みんな、めんめ(それぞれ)に何ぞ食べよったがい。
(奥様) 私の里は小麦を自分の家で挽きよったわ。私もおばあちゃんに手伝わされよった。小麦の脱穀やらもさされよった。
(主人) 畑で小麦を刈っての、穂を束にして「かなばし」いう道具に結わえ付けてぐるっと回すんじゃ。そしたら穂が下の蓆に叩きつけられて籾が落ちて、それを大きなジョウレンみたいなので“さびる”んじゃ。それで軽い藁の端みたいなのを風で飛ばして小麦の籾だけにして、それを突いて実だけを採って挽き臼で挽いて粉にしよった。戦後になったら「千歯扱(こ)き」が出てきての。
- とんがった鉄の歯が上向いてようけ並んどるやつに稲の束を叩きつけて引っ張ったら、籾が削ぎ落とされるやつ。
- (主人) そうや。それから今度きりはドラムみたいなのになった。大けな太鼓か木の樽みたいなドラムに太い針金を輪にしたようなのが一杯ついとって、足で踏んでドラムをブンブン回して麦の穂を押して当てたら、針金に当たった籾が削ぎ落とされていくんや。それでずいぶん脱穀が早よにできるようになった。
- 香西の家では小麦を粉に挽いたりはしてなかったんですか?
- (主人) 粉にまでしよったんは事変中だけやの。事変中は精米がなかなか挽いてくれんけに。
(奥様) 空襲や、いうて防空壕に入りよった頃や。
(主人) ほいでも戦後になったらまた、小麦を精米に持って行ったらすぐ粉にしてくれた。
- 精米屋はどこにあったんですか?
- (主人) 下河じゃ。郷東の川の根の、土手の東側にあった。戦後や。
(奥様) うちは鶴市の農協に持って行きよった。大八車に乗せておばあちゃんと二人で。小麦は持って行ったらそれを粉を挽いてくれるのと、小麦を別の粉に代えてくれるいうのと両方あったな。なんとてお米も小麦も全部、大八車に積んで農協に持って行っきょったわ。
(主人) 下河の精米はうどんも打ってくれよったで。法事やいうたら粉を持って行って、1貫目、2貫目いうてうどんにして持って帰りよった。下河はセイロにうどん玉が16入っとって、2貫目いうたらセイロ6つ持って帰りよったがい。あとは家ではダシだけ作って、持って帰ったうどんの玉をカゴに入れて湯でさばいて、丼に移してダシをかけて食べる。「ぬくめうどん」言いよったの。
(奥様) うちはダシもしよらんかった。醤油かけて食べるだけじゃわ。
(主人) 大体その頃は、正月だけしか米のメシ食えなんだんじゃ。「法事ほうさん孫子(まごこ)の正月」いうての、法事の時だけ米のメシ食わしてくれるんじゃ。うどんにしょうか、米の飯にしょうかいうて。そら米の飯じゃ。
家で「延ばしうどん(打ち込みうどん)」をしょっちゅう作っていた
- 家でうどんを打ったりはしてなかったんですか?
- (主人) 「延ばしうどん」はよう作りよった。家内と一緒になってからやから、まだ昭和20年代や。
- 何ですかそれは。
- (主人) 今で言う打ち込みうどんやの。自分で小麦粉を練って、足で踏んで団子にして、ナイロンに包んで冷蔵庫に入れとくんや。それで、いる時に団子をちょっと削って、それを延ばして切っての。野菜を一緒に入れて打ち込みうどんにして食べるんや。打ち込みにするけに、塩はちょっとしか入れんと練るんじゃ。ようけ入れたら打ち込みの汁に塩が出てきて辛うなって食えんようになるからな。飯の間にちょっと腹が減ったらお椀に一杯ずつぐらいこしらえて。粉を一袋分団子にしといたら、家内と2人で1週間ほど食えよった。おう、家に打ち板も麺棒もあったがい。今でもあるし、作れるぞ。作ろか?
(奥様) 話聞っきょんのに、今作ってどうするんな。
(主人) うちのざいご(田舎)のおっさんはうどん打つの達者だったんじゃ。わしが行ったら、「さあ、清が来た。よし、うまいうどん打ってやろう」言うて、板の上に風呂敷を敷いてその上で足で踏んで、こなな団子を5つも6つも踏んで打ってくれよった。
(奥様) まあ主人は延ばしうどんが好きやったわ。私や野菜切ったりするばっかりで、あんまり好きではなかったけどな。
高松市香西あたりは戦前から飲食店がたくさんあった
- 昭和20年代にこの近所(高松市香西あたり)にうどんの店はあったんですか?
- (主人) ちょいちょいあったわ。戦前から4~5軒あったんと違うか? 平賀(香西本町)に「山本」の“ひでやん”がうどん屋しよった。縄のれんを吊っての。店は5~6人入ったら一杯になるぐらいで狭かったから、万徳市(万徳寺の市)の時はすごかったがい。うどんと支那そばと、巻き寿司も売りよったわ。
それから、今の香西の郵便局のそばの愛染橋のとこ、川の西側で「青木」の“おえいさん”がうどん屋しよった。戦後になっておばあが歳いってやめたけどな。それから農協の前で日野さんのとこが提灯吊って店出しての、お汁粉やぜんざいを出しよった。
あとは、昔の百十四(銀行)のとこ、今、アイさんのパーマ屋があるところで「島原」のおっさんが戦前からのれん吊って店をしよった。3~5人座れるテーブルが3つ4つあったけに、15人も20人も入れるぐらいの店で、うどんと支那そばと、お揚げの炊いたんや焼き豆腐の炊いたんやヒロウズやも置いとったわ。そばが5銭で、うどんは3銭ぐらいやった。事変中に、わしが10歳か15歳の頃は、5銭貯めたら連れと一緒に香西の商店街の角にあった風呂屋に行って、帰りしなに支那そば食べて帰りよったんや。
(奥様) 私やその頃、支那そばや言うんは知らんかったわ。香西は町やったけど、弦打(つるうち)は田んぼばっかりやから、店におうどん食べに行ったこともない。アイスキャンデー買いに行っきょったんは記憶にあるけど。
(主人) 香西は店がようけあったが。揚げ物屋も2~3軒あったぞ。おばはんが親子で酒屋をしよって、揚げ物も自分くで揚げて、うどんもしよった。
- 揚げ物って、衣に色がついてました?
- (主人) ついとった。イモ(サツマイモ)の揚げ物は真っ黄色や。レンコンやゴボウは青やった。赤や緑は見んかったのう。あれはの、八百屋で干からびて売れんようになったやつを仕入れるんかもらうんかして、そいつを揚げて売りよったんや。
(奥様) 私も酒屋さんの店先で揚げ物を揚げて売りよるのは見たことがあるわ。
(主人) 酒屋での、みんな揚げ物をアテに食いもって酒を飲みよったんや。わしか? わしは酒だけやがい。よっぽどの人でなかったらアテに揚げ物なんか食うかい。一杯飲んで揚げ物一つ食ういう人はオシャレじゃ。
- 戦後すぐの頃にに香西にうどんを出す店がそんなにあったということは、玉売りの製麺所も結構あったんですか?
- (主人) いやー、あんまりなかったと思うなあ。
(奥様) 香西は町やから店はよっけあったけど、玉売りをしよる製麺屋は香西の外にあったん違うかな。
(主人) 坂本の製麺屋は古いわ。戦前から香西でうどんの玉を作って売りよった。
(奥様) 戦前にもう「親の代からしよる」言いよったから、大正にはもうしよったん違うかな。
(主人) ほいでまあ、「あそこから3箱頼まれとる、あそこは4箱や」いうてようけ売りよったわ。うどんだけで子供を5~6人、大きにしよったがい。
- じゃあ、大手の製麺屋ですね。それで他の製麺屋があまりなかった。
- (主人) そうかもしれんのう。