香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市伏石町・昭和14年生まれの男性の証言

横須賀の百貨店で手打ちうどんを実演販売(上野文夫さんのお話)

(取材・文:

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  • vol: 170
  • 2017.01.05

みそ汁にうどんを入れて「打ち込み汁」

 私が生まれたのは、伏石町の気象台のちょっと東っかわだったんですよ。私は五反百姓の5人兄弟の長男ですから、貧乏の代表みたいなもんで(笑)。みそ汁にうどんを放り込んで、「打ち込み汁」っちゅうんです。それが主食みたいなもんで。

 小さい時(昭和20年頃)から、親が田んぼしてる間に自分で作って全部やらないかんから、親から料理のやりかたを教えてもろて子供心に覚えとったわけですね。今みたいにみそ汁一杯ではなく、ご飯の代わりですから何杯も食べる。これを大きな鍋で作るんですが、子供やから大きな鍋が持ち上がらんで、おろっしょって(下ろしていて)ひっくり返したというのが、記憶にありますわ(笑)。

 食べ方としては、煮込みうどん的なのが多かったですね。打ち込みうどんにしても煮込み。昔はお金があまり流通してなくて、具材はその時の旬の野菜、シーズンの野菜ですね。だからカボチャがとれたらカボチャばっかり入ってきたり、ジャガイモばっかりだったり。ジャガイモは日持ちするから年がら年中置いとったりするから割と常時入ってきよったし。旬のものが入ればそれがおいしいわけやから。あの頃の農家は、食べるもんいうたら全部自分のところのんでやっりょったから。

 戦前戦後の当時は米の「供出」っていうんがあってね。家で穫れた米は麦入れて食べるくらいの量は残して、あとはぜんぶ国に供出っていう形。隠したりいろいろしないように、調べに来たりしよったからね。でも、麦や小麦は供出がなかったから農家は自由に使えた。うどんだけじゃなく、いろいろ加工してました。平たく薄く伸ばしてまんじゅうみたいな状態にしたのを、みそ汁に入れて具の代わりにして。なんちゅうたかな、なんか名前いよったけど。すいとんとはまた違う。すいとんと呼んでる地区もあったかもわからんですけど。

豚を密殺して肉うどん、川をせき止めてドジョウ根こそぎ

 当時は現金収入がないから、みそもしょう油も全部自分ところで作るんですよ。で、たまに親父がどぶろくも作っりょった(笑)。配給ですから、全部。酒も一人何合とか決まってた。

 それとね、タンパク質が全然手に入らんのですよ。それで隣組でね、豚とか密殺する。豚も勝手に殺したらいかんのやけど、戦時中や戦後そこらは背に腹変えられんから、密殺してその肉を近所に分けたり、肉うどんつくったり。それでもなくなったら、しまいに犬の肉も食べたことがある。

 ドジョウうどんもあった。すぐそばに川があって、だいたいドジョウがいる場所ゆうんはわかるから、川を何メーターか端を塞いで、水をかい出してしまう。ほんならもう根こそぎや。

 うどんをみそ汁に入れない場合は、うどんだけやったら生醤油かける場合もあるし、そうでない場合は昆布ちょっと入れてダシを出して。それとあの頃はお祭り、うどんとカキマゼご飯、五目ずしっていうかカキマゼ寿司っていうか。母が一宮出身で、一宮のお祭りいうたら歩いて行ってたね。あと、たまに出るぜんざいや甘酒。それを楽しみに歩いて行ってね。戦前戦後はそんな時代だったですね。

食べるものがなくてもうどんはあった

 それと、あの当時だと、遍路の子連れの女の人なんかに「カドヅケ」っていって、ちょっとお米を渡したりね。お昼だったら「一緒に食べまい」って言うてね。うどんは分けて一人分を二人分や三人分にでも増やせるから。「お遍路さん、お遍路さん」いうて親がよう呼んでましたね。ほとんど毎日くらいお遍路さんが来てました。高松も焼けて何もないわけですからね。泊めてあげたりもしてました。ご近所さんもそんな感じでお接待してたと思います。

 稲穂が垂れ始めたら、街から来た人が道端の手が届く稲穂をしごいてもって行く。たぶん持って帰ってついたりして食べよったんでしょうね。食べるもんないから。農家はある程度黙認みたいな形にしてましたね。気の毒がって。

 そういう中でも、うどんは普通に食べてました。おかずも何もなくてそれだけで。このあたり一帯、二毛作で麦作ってましたからね。それを精米所っていうところでね、麦持って行ったら挽いて小麦粉にしてくれる。だから自分のところの麦でうどん作ってた。

 精麦は、今里の「前川」っていう精米所があってね、そこは同級生の家で。太田には「別所」さんていうのがあったけど、そこの女の子も小学校で一緒だったんです。伏石や今里や松縄三条辺りは「前川」で挽いてました。小学校になったら「自分で米ついてこい、麦ついてこい」って言われて、リヤカーで持って行って、グイーンって言うてモーターで精米やってたですね。

 あの頃は、周りに店やゆうのはなかった。あったのは「デミセ」っていうて、道池の両端に何軒か。その辺りのことをデミセっていう風に地区名で呼っびょったからね。小学校の担任の田村先生のところは、着るシャツやズボンやそういう店屋をやってましたね。

 高松高校の中庭の真ん中には10円うどんがあって、近くにクスノキがにありましたね。そのクスノキは、今、玄関のところに持って行っとるんやないですか。

百貨店で手打うどんの実演販売のアルバイト

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百貨店で実演販売をしていた当時の写真。

 私は高松高校から拓殖大学に行ったんですが、在学中に向こうの百貨店でうどんの実演販売のアルバイトしたことがあります。中学、高校の時の同級生の紹介で「横須賀の『さいか屋』で、香川県の名品展かなんかでうどんの実演販売の店を出してるんで行け」と。

 そこでうどん屋やっとった人は、中西太と同級生で高松一高の卒業生だった。名前はわっせて(忘れて)しもうたんですけど。店の名前も覚えてないけど、「讃岐の手打ちうどん」ってなってたように思う。実演販売の横で食堂があって食べられる。腹いっぱい賄い食って、一日で500円か1000円やったように思う。けど晩飯食って酒飲んで帰ったら半分くらい消えよった(笑)。

 昔は「さいか屋」でいろんな物産展みたいなのやってて、讃岐の物産展に一週間くらい行った。あと、「二幸」っていう食品のスーパーみたいなところと、「三越」の日本橋本店、池袋、新宿でもやりました。「三越」もこういう形でやっじょったです。これが昭和36年でしたかね。

 うどんにしても、タカコウ(高松高校)の鰹節とネギが入ったうどんが10円だったんだから。いま10円言うたら食べられるもんないわな。その当時、東京で私が手打しよったうどんは一杯100円以上。だから10倍以上しよった。ちょっとカマボコを切ったん入れたりはしよったけど。それ考えたら東京はえらいうどんが高かった。

1せいろ、20玉食べたらうどん好き

 うちの近所でうどん通と言われるにはね、一食で20玉。せいろというのが4列の5列かな。4×5=20。それを食べたら一人前のうどん好きだと言われる。私もそれはとても食べたことはないですけど。うちのご近所さんは、流しこむみたいにうどんをたったったったっと食べてました。近所でも「うどん好き」というのはその人の代名詞になったくらい。まあ盛岡のわんこそばだったら、20杯くらいいけますけどね(笑)。

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