昔のうどんは柔らかかった
-
私は昭和19年の屋島生まれなんだけど、父の会社の関係で1~2才の頃は尼崎にいたんです。でも、お婆ちゃんはこっちでずっと商売しよった。ケーブル(旧屋島ケーブル)のとこで。それから言うと、お店はものすごく古いんですよ。お寺さん(屋島寺)の前に歩いて降りる道があるんだけど、そこのところに「食わずの梨」っていう場所があって、そこでお土産屋さんをしてたの。古ーくから。ドライブウェイがまだない、ケーブルがまだあったかどうかいう時代から。
父の兄が戦争で亡くなって、父が高松に帰ってきて、そのまま私も一緒に連れて帰られた。最初はケーブルのところにいたんだけど、こっちにドライブウェイができるいうことで、できる前からこっちにお客さんが回って来てた。土地が空いたからいうて、ここを買ってお土産屋さんにしたんです。それで上に上がってきて商売しだして70年。私が三代目。今は旅館になっとるけど。
私やの小さい頃はしっぽくうどんとかね。ああいうなんで味付けしてね。里芋とかでうどんの味をごまかしてた。コシがあるうどんっていうんは、あんまりなかったように思うけど。それが今頃は「コシがあります」みたいに言うけど、あの頃は炊き込みみたいなね。やらかかった(柔らかかった)ように思う。
万博の頃から屋島にうどん店ができた
- 屋島のこの辺りの人は、ご家庭でうどんを打ってましたか?
- うどんはよろず屋さんで玉を買ってた。今で言うスーパーみたいなやつです。「健康ランド」がある辺りに店があって、そこでうどんだけでなくダシとかカツオも仕入れてた。ケーブルがない時代は、「オイコさん」いう人らが下からうどんを担いで上がって来てました。
- 屋島山上でうどんを出し始めたのはいつ頃ですか?
- うどんより前からあったんはイイダコとか、今でもあるけどテイクアウト型。中に入って座るっていうんじゃなくて、食べながら歩くことの方が多かった。それと、表にもっと床几(しょうぎ)がいっぱいあって、お客さんが座ったら「ハイー」ゆうてお茶菓子とお茶とを持って行っきょった。
- 峠の茶屋みたいな感じで?
- そうそう。だから、うどんていうのは食べよらなんだと思う。うどんが増え始めたのは、万博の昭和45年くらいが境かな。万博で有名になったんで「うどんはないんか」というお客さんが増えたからかも。その後は、瀬戸大橋博の頃にものすごいできだした。それで今はまた減ってきたからね。