香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市屋島東町・昭和19年生まれの女性の証言

屋島山上のうどん事情(屋島の旅館「桃太郎」の女将さんのお話)

(取材・文:

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  • vol: 172
  • 2017.01.12

昔のうどんは柔らかかった

 私は昭和19年の屋島生まれなんだけど、父の会社の関係で1~2才の頃は尼崎にいたんです。でも、お婆ちゃんはこっちでずっと商売しよった。ケーブル(旧屋島ケーブル)のとこで。それから言うと、お店はものすごく古いんですよ。お寺さん(屋島寺)の前に歩いて降りる道があるんだけど、そこのところに「食わずの梨」っていう場所があって、そこでお土産屋さんをしてたの。古ーくから。ドライブウェイがまだない、ケーブルがまだあったかどうかいう時代から。

 父の兄が戦争で亡くなって、父が高松に帰ってきて、そのまま私も一緒に連れて帰られた。最初はケーブルのところにいたんだけど、こっちにドライブウェイができるいうことで、できる前からこっちにお客さんが回って来てた。土地が空いたからいうて、ここを買ってお土産屋さんにしたんです。それで上に上がってきて商売しだして70年。私が三代目。今は旅館になっとるけど。

 私やの小さい頃はしっぽくうどんとかね。ああいうなんで味付けしてね。里芋とかでうどんの味をごまかしてた。コシがあるうどんっていうんは、あんまりなかったように思うけど。それが今頃は「コシがあります」みたいに言うけど、あの頃は炊き込みみたいなね。やらかかった(柔らかかった)ように思う。

万博の頃から屋島にうどん店ができた

屋島のこの辺りの人は、ご家庭でうどんを打ってましたか?
 うどんはよろず屋さんで玉を買ってた。今で言うスーパーみたいなやつです。「健康ランド」がある辺りに店があって、そこでうどんだけでなくダシとかカツオも仕入れてた。ケーブルがない時代は、「オイコさん」いう人らが下からうどんを担いで上がって来てました。
屋島山上でうどんを出し始めたのはいつ頃ですか?
 うどんより前からあったんはイイダコとか、今でもあるけどテイクアウト型。中に入って座るっていうんじゃなくて、食べながら歩くことの方が多かった。それと、表にもっと床几(しょうぎ)がいっぱいあって、お客さんが座ったら「ハイー」ゆうてお茶菓子とお茶とを持って行っきょった。
峠の茶屋みたいな感じで?
 そうそう。だから、うどんていうのは食べよらなんだと思う。うどんが増え始めたのは、万博の昭和45年くらいが境かな。万博で有名になったんで「うどんはないんか」というお客さんが増えたからかも。その後は、瀬戸大橋博の頃にものすごいできだした。それで今はまた減ってきたからね。
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