「ご飯が足らんなー」言うたら製麺所へ玉を買いに
生まれた家は葛原(かずわら・多度津町の南部)の農家でしたが、いつぐらいの時かな…昭和29年(4歳の時)に多度津の街中に来て、家中(かちゅう)で育ちました。ここ(多度津資料館)から真北に歩いて3分ぐらい。父は地方公務員のサラリーマンで、母が内職的におふとん屋さんをしてましたね。
私がまだ小さい頃、小学生の低学年ぐらいには、うどんは「ご飯が足らん」言うちゃあ買いに行ってましたよ。「晩ご飯、ご飯足らんな-。どうしようか」言うたらね。買いに行くお店は製麺所です。すぐそこに山本医院というお医者さんがあるんですけど、その南側のちょっと路地入ったところの突き当たり。「青山」さんいう製麺所ですね。製麺だけしよって、そこで食べさせたりはなかったと思います。みんなそこで玉を買ってました。お店の中がどんなかったかは覚えてないです。物々交換とかじゃなくちゃんとお金で払ってましたが、値段も覚えてない。ここはいつ頃まであったんやろか。
父が作ってくれた「ドジョウうどん」
家では父親が、そんなにさいさい(頻繁)ではないですが、うどんを打ってくれました。「ドジョウうどん」って呼んでましたが、魚のドジョウが入っとるんじゃないよ。父が打つのは、うどん屋さんみたいに細くて長いのではなくて短いうどん。ドジョウぐらいの長さだからそう呼んでたんだと思います。
専用の道具はなくて、あるもんで作っていました。伸ばすのはスリコギぐらいでしてたように思います。家で食べるうどんは「ドジョウ」をした時は煮込みで、後はほとんど玉を買ってきた「かけうどん」でしたね。うどんは日常的に食べていて、たまに食べるごちそうみたいなのではなかったですけど。結構買いに行ってましたね。
それと法事。私は子供やから法事には行かないでしょ? でも、父親が法事に行って帰ってくる時は、お土産にうどん玉を折りにいっぱい入れて持って帰ってきてくれましたね。今はナイロン袋に入れますけど、昔は折りとか木を薄く削った薄皮に包んでました。たこ焼きの舟みたいな薄い木のね。家で法事は子供の時一度だけありましたけど、その時はうどんは出なかったですね。
お祭りの練習の後にはうどんを食べて解散
製麺所以外でうどんが食べられるお店は、ここ(多度津資料館)から、それこそ歩いて2~3分の所。「上海軒」てラーメン屋さんの向こうに行った所に、小さな…何いうお店やったかな…おうどん屋さんがありましたね。お祭りの時に子供会で練り歩くんですけど、その踊りの練習の帰りには、いつもそこへ行って、うどんとお寿司を食べさせてもらって解散してました。
あ、思い出した「しまだ」っていうおうどん屋さん。お寿司は大抵、バラ寿司ときつね寿司。あと、うどんは普通のカマボコが乗っとるのしかあまり食べたことがない。他の具はあんまりなかったですね。今の「かけうどん」やけど、注文は単に「うどん」。メニューは寿司とうどんと、あっても天ぷらぐらい違うんかな。食堂ではなくてうどんが主のお店だったと思うよ。
おばちゃんがいつも出前でおうどん持ってってましたよ。自分で注文しないし、値段も食べさせてもらいよったから分からんですね。意外と自分でお金払って食べた記憶ってないですね。外で食べるというとそれぐらいやね。「しまだ」は平成に入ってまだあったと思うんですが、今はもうないです。そこのお家の人はすぐそばにまだいらっしゃるんで、そこのお嫁さんに聞いたら分かると思う。
まだ近くにもう1軒あったよ。「しまだ」よりももうちょっと東に行った所に、この街道筋よりはちょっと中に入ったとこですけど、「つじ」さんいううどん屋さん。そこは製麺所でしたね。でも元々はその「しまだ」いううどん屋さんの近くで製麺してたんですよ。それがいつの頃からかそっちへ引っ越ししましたね。
で、ここは近くに水産高校があって、そこの学生さんたちがよく入って食べてましたね。製麺所だけど食べられる店で、店内に席もありました。メニューにはカレーうどんもあったんですよ。これはそんなに大昔じゃなくって、うちの子供が小学校の時やけん。今38の子が小学生の時…平成に入った頃に私が行った時の話です。ここももうやめたと思う。
昔の多度津には角々にうどん屋があった?
子供の頃歌いよった「たろつのかろのうろんやで うろんろっぱい はらろぶろぶ(多度津の角のうどん屋で うどん六杯 腹どぶどぶ)」やけど、その中に出てくる「多度津の角のうどん屋」。町内の「平野屋」さんが「うちのうどん屋や」っておっしゃるんです。あそこは老舗で、元々は本町橋の角っこの一等地にありましたから。でも「多度津の町というのは、角々ぐらいにうどん屋さんがあったからそやん言うんや」という話もあって、あの歌のうどん屋さんがどこなのかは本当のところは分からないんですよ。有名なうどん屋さんがあったのは間違いないんでしょうけど。そこで修業を積んで、それぞれ独立しておうどん屋さんを営んでたという話を「平野屋」さんはされとったけどね。
港の近くには姉妹がうどん屋さんをしてて、ものすごく流行ってたという話も聞きました。それはやっぱり明治の頃でしょうね。その時代は港が栄えてましたから、港に船が着くと乗っていた人たちが皆、陸に上がって食べに来たんでしょうね。
後はそれこそ桃陵トンネルのちょっと手前に、信号が2つ並んでるじゃないですか。多度津資料館から行くと初めての信号の所に、食堂みたいなお店があるんですけれど、そこは30年ぐらいか、もうちょっと前には「青葉食堂」という食堂がありました。そこはそれこそ食堂だけどおうどんも食べられましたよ。
町民会館へ行く大通り沿いにも製麺所がありましたし、私が中学生の頃(昭和37年頃)には町民会館の近くにもおうどん屋さんがありましたよ。入ったことはないですけど。街中に入るとあっちこっちにあったんじゃないかと思います。港もそうですけど、JR多度津工場には多い時には2000人ぐらいいたって言いますから、そこで働く人が食べに行ってたんでしょうね。学校のクラス50人の半分以上は、お父さんがJRの工機部行ってましたから。
JRの前にある焼肉屋さん「いこい」の「鍋ホルうどん」も、JRの人が食べよったそうです。向こうの中国銀行の所にある長尾の酒屋さん。そのちょうど真向かいに長尾さんが使ってる倉庫があるんですけど、そこもうどん屋さんでした。警察の横にもおうどん屋さんありましたよ。多工のちょうど真ん前ぐらいにもあった。今は「寿美屋」さんぐらいしか残ってないけど。
こうやって思い出すと、多いね。やっぱり角々にあったんやろうか。本町の商店街の辺りとか、あの辺におうどん屋さんがあったかと言われると、その辺は分からないですけどね。ちょっと離れてるから。