香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

昭和17年生まれの女性の証言

昭和20~30年代の旧綾上町のうどん事情

(取材・文:

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  • vol: 135
  • 2016.06.02

銀座と呼ばれていた綾上町の各繁華街には、当時からうどん店が存在した

綾上町の周辺には現在、たくさんのうどん店がありますが、昔もうどんを食べさせてくれるところはありましたか?
今ほど多くはないけどあったなぁ。昭和20年代くらいに、知っているだけで3軒のうどん屋があった。「金瀧(かねたき)」さんと「加藤」さん、それに「北原(きたばら)」さんとこや。

「金瀧」さんとこは役場の支所(綾上町役場綾上支所)の辺りにあって、配達もしとった。小父さんが自転車の荷台にうどんが入った岡持ちをくくりつけて、鼻歌交じりでよう運んどったで。

「加藤」さんとこは農協の横にあって、店に平均台みたいな長い椅子があったんを憶えとる。農協の人もよう利用しとってなぁ。みんなよその店で揚げなんかを買うて、勝手にうどんにのせとった。店の人は何ちゃ言わなんだけど(笑)。

「北原」さんとこは綾上中学校辺りにあった。店があった場所は別々やったけど、あの辺りは昭和20年代くらいには「銀座」って呼ばれとったほど賑やかな場所やったんやで(笑)。

その3軒の店ではうどんの麺を作っていましたか?
どこの店も自分とこでうどんを打っとった。卸しや玉売りまでしとったかどうかは知らんけど。近くの商店で麺を売っとったから、やっぱり卸しよったんやろか? 原料の小麦粉は多分、水車小屋で段取りしとったはずや。

綾川の周りには水車小屋がいっぱいあった

水車小屋というのは?
小麦粉をもらえる製粉所や。販売と、小麦を預けたら小麦粉に換えてくれたりもした。綾川沿いには当時、水車小屋がよっけあってなぁ。綾川のちょっと引っ込んだところに、ず〜っと(綾川の水を引いている)水路があって、そこの水を利用して水車を回しとったんや。

水車の横には納屋があるんやけど、納屋の中には水車が回ると動く歯車なんかがあってな。その動きを利用して小麦を挽いとった。場所によっては水車だけやのうて、足踏み式の道具や電気で挽くとこもあったな。

どうして綾川の周りにそんなにたくさんの水車小屋があったのですか?
綾川は水がええけにな(いいからな)。それと、この辺は土地がええ。だから昔から米はよう育つし、美味しい麦もよっけ採れた。うちもそうやったけど、この辺りに住んどるほとんどの人が農家やったから、水車小屋がよっけあっても十分にやっていけとったんや。

そやけどな。いつ頃からかは忘れたけど、農協が機械を使うて製粉をし始めてな。水車小屋に比べて、そっちの方が得やったからみんなが利用するようになったんや。水車小屋は小麦をまとめて預けないかんかったけど、農協は小麦を持って行ったらその都度挽いてくれたし。そんなんで農協は便利なところもあってな。それでいつの間にか水車小屋がなくなってしもうた。

水車小屋を利用したことはありますか?
近くにあった「石見(いしみ)」さんとこの水車小屋をいつも利用しとったで。小麦は毎年5月頃にできたんやけど、できた分の中から売る分をのけて、余ったやつをまとめて石見さんとこに預けとった。ほいで必要なときに通い(帳)と一斗缶を持って、小麦粉をもらいに行っとった。通いの中身はようには知らんけど、小麦を預けた量や交換した小麦粉の量が記されとったんやろな。

水車小屋で素麺も!?

どれくらいの量の小麦を一度に預けていましたか?
それもようには知らんけど、だいたい一年で使い切るくらいの量やで。古くなったら美味しくなくなるしな。

小麦を預けるんにお金は要らなんだ。小麦粉と交換するんも要らなんだ。その代わりに加工賃として、小麦か小麦粉をなんぼか取られたんとちゃうかな。

その水車小屋でうどんの麺は作っていましたか?
それはしとらんかった。やけど、冬場だけ素麺を作っとった。小豆島で見かけるみたいに素麺を外へ干してあったで。

家にうどん打ち道具が一式揃っていた

もろ蓋と麺打ち棒。もろ蓋の墨書きに注目を。

もろ蓋と麺打ち棒。もろ蓋の墨書きに注目を。

小麦粉をもらうのは家でうどんを作るときですか?
そうや。家では父が麺を打って、母や自分ら子どもが手伝っとった。家には麺棒や麺打ち台、もろ蓋、包丁なんかのうどんを作る道具が一通り揃っとってな。麺を鍋から掬うのに使う細長い「きつね笊籬(いかき)」まであったで。

道具のいくつかには、道具を作った日か手に入れた日か知らんけど、「昭和○年○月吉日」ゆう日付と、持ち主である父の名字、住所が墨で書かれとった。今もいくつかの道具が残っとるけど、墨書きはまだ消えてない。

どのような手伝いをしましたか?
生地の足踏みをようしたな。打ち板の上にうどんの生地を置いて、その上に直接ござを敷いて裸足で踏んだ。ござは近所の畳屋から畳の切れ端をもらって来て、それを使っとったなぁ(笑)。

半夏生には、うどんにキュウリとタコの酢の物が習わしだった

家でうどんを作るのはどんなときでしたか?
田植えの頃や、半夏(半夏生)のとき。盆や大晦日、法事や祭りなんかのときにも作ったなぁ。なんかの行事があるときや節目のときやで。

田植えの時期は、ほとんど毎日ず〜っとうどんを食べとった。忙しいきにな。つけうどんや醤油うどんだけで簡単に食事を済ませとった。

田植えが終わった後の半夏(半夏生)のときは、うどんを食べた後、キュウリの中にタコを入れた酢のもんを必ず食べた。タコの吸盤は吸い付くやろ。やから、稲の根も田んぼによう吸い付くようにゆうて縁起を担いで。キュウリとタコの酢のもんを半夏(半夏生)に食べるんは、昔からの習わしや。

暑い時分にはドジョウ汁や。夏越やら祭りの打ち上げやらで、地区の人らが集まったときもみんなで作った。ドジョウ汁ゆうたら今は冬の料理のようやけど、ドジョウはもともと夏に獲れるから夏のもんや。田んぼにドジョウがおって、それを獲っとった。

ドジョウが鍋からピンピン跳ねた!?

ドジョウ汁の中にはうどんも入っているんですか?
うどんが入らなドジョウ汁にならんやろ(笑)。打ち込みうどんにドジョウが入ったやつや。獲ったドジョウはように洗った後、酒をかませて骨を柔らかくしてから、熱い鍋に放り込んどった。生きたままでな。そしたらピンピン跳ねて、鍋から飛び出してしまいそうになる。「急いで蓋をせーよ」とかって、みんなで言い合っとったなぁ(笑)。

ドジョウ汁もそうやけど、祭りなんかの紋日には小エビのかき揚げやバラ寿司もよう作っとったで。かき揚げは野菜なんかは一切入っていないやつで、小エビはバイクで売りに回っとった近所の魚屋さんから買うとった。丸亀の魚市場で仕入れとったらしいけど。

ちなみに、ドジョウ汁は公民館で何かのイベントがあったときには今も作るで。うどんの麺も、みんなで綿棒や打ち板なんかの道具を持ち寄って作る。昔、使っとった道具やけどな。

うどん店で玉を買わずに、わざわざ作るんですか?
ドジョウ汁や打ち込みうどんに使う麺は粘り気がないとあかんからなぁ。昔はうどん屋に頼んだら、粉がよっけ付いた粘りのある麺を分けてくれよったけど、今は断られるようになった。わざわざ用意するのが面倒なんやろうな〜。注文する玉数もそこまで多くないし。やから、自分らで作るようになったんや。

年越しそばではなくて、しっぷくうどん

節目のときに食べられたうどんの話を続けますが、大晦日は?
「しっぷく(しっぽくうどん)」や。この辺では年越しそばやのうて、うどん。暮れになると、餅と酒の肴になる「てっぱい」と「しっぷく」をよっけ作ってな。それで正月の間、しばらく過ごすんや。

物心がついた頃はしっぷくを食べるのは大晦日や正月くらいなもんやったけど、だんだんとよう作るようになった。「今日は寒いから作ろか」ちゅう感じで。しっぷくの具に欠かせん大根と里芋が収穫になる11月の末頃から作り始めとった。もちろん野菜だけやのうて、醤油や味噌なんかのダシに使う調味料も自分とこで作っとったで。

法事では皿に入ったうどんを鍋で湯がいて笊籬(いかき)で掬って食べていた

法事のお膳のとき、うどんを入れていた皿

法事のお膳のとき、うどんを入れていた皿。

では、法事のときは?
法事にはお膳が出るんやけど、その中にうどんがあった。バラ寿司を入れるような底の浅い、山水画風の柄が入った皿に生のうどんが入っとるんや。当時は今みたいな丼なんてなかったからな。

それで、うどんを食べるときになったら麺を温めるんや。熱い鍋の中に麺を入れて、温もったら「温(ぬく)め笊籬(いかき)」で麺を掬うんやけど、笊籬から垂れている湯を皿の中にまず落として、それから麺を入れとった。

余談やけど、「法事のときにうどんを入れていた皿は、本当にあんなんでよかったんやろか」と、ずっと思っとってな。大人になってからのある日、近くにある長楽寺というお寺でお膳を食べる機会があったんやけど、そのときにもやっぱり同じような柄と形の皿に入ってうどんが出て来て、安心したのを憶えとる(笑)。

それと、昔は今あるようなうどんを入れる丼なんてなかった。この辺りだけかも知れんけど。いつか忘れたけど、農協で貯金をしたら丼をくれるキャンペーンがあって、それで各家々に丼が普及したんや。今でもそのときに配られとった丼を見かけるで。うどん屋でもな。

お寺の「お斎(とき)」で、うどんが出るのは当たり前

丼プレゼントは当時、かなり人気だったんですね(笑)。それにしても、お寺でうどんが出るのですか?
お彼岸の法要とか、盆会とか、永代経や報恩講がお寺で行われるときは「お斎(とき)」ゆうて昼の食事が出る。そのときにはうどんは必ずあって、他に醤油豆と酢の物なんかも付いとるんや。

もちろん「お斎料」とお米を袋に入れてお寺に渡さなあかんけど。この辺りは浄土真宗の家が多いんやけど、昔からみんなお寺に行って「お斎」を食べとるよ。

葬式を手伝いに来ている近所の人が、まかないでうどんを食べることも

葬式のときにもうどんを食べることはありましたか?
初七日や四十九日のお膳にはうどんが出たけど、葬式にうどんは出んかったなぁ。けど、葬式を手伝いに来ている近所の人なんかはうどんを食べることがあった。日が悪くてお葬式が延びると大変やからな。
どうして大変なんですか?
葬式の当日はもちろんやけど、葬式が行われるまでの間は「同業」と呼ばれる近所の人が来て、故人の家のご飯を作ったり、身の回りの手伝いやなんかをしてくれるんや。そやけど、その人らもご飯を食べなアカン。お膳に加えて、まかない飯にも献立を用意しとったら余計に大変なことになる。でも、うどんを入れたらしばらくはいけるし、用意も楽になるやろ(笑)。

葬式のお膳は男の人が作っていた

なるほど。そういうことですか。ちなみに、葬式のお膳はどんな内容だったのですか?
四角いお揚げを甘辛く炊いて辛子をのせた「おひら」。ひじきみたいな「あらめ」。煮炊き物にゴマを振った「おつぼ」。一口だけのご飯が入った「入れ飯」。あとは、キュウリの酢の物や豆腐の醤油汁なんかも付くんやけど、どれも一品ずつ黒塗りの皿や椀に盛りつけられとった。それを全部、男の人が作っとったな。
女性ではなく男性が!?
そうや。手伝いに出るのは男の人がほとんどや。女の人が出とったら「あそこの主人は手伝いに来んと外で働いて儲けとるで。へらこい(ずるい)」って思われるから(笑)。

手伝いをする男の人はそれぞれに担当があってな。例えば式場の準備や祭壇を組む係はもちろんやけど、お膳の準備も揚げを炊く係、あらめを作る係などと細かく分かれとった。で、どこの法事でも担当は一緒やったから、みんながそれぞれの名人でな。だから料理も上手やった。他の料理は作れんやろうけど(笑)。

結婚式にはうどんでなくて鯛素麺

ご近所との繋がりが深かったんですね。ついでにお伺いしますが、結婚式も同じように同業さんが集まって料理を作るんですか?
結婚式も葬式と同じく家でやっとったけど、料理は近所の仕出し屋から料理人を雇って作ってもらっとった。式の手伝いは同業がしたけど。
当時、結婚式にうどんは出ましたか?
よう(よく)憶えとらんなぁ。式の最後に鯛素麺は出とったけど。
鯛素麺ですか!?
料理人一番の腕の見せ所でな。蒸して焼いた鯛の上に素麺をのせて、周りを細工した大根や人参なんかで飾り立てるんや。電飾なんかをつけることもあった。

その賑やかな大皿をテーブルの上にのせて、料理人が伊勢音頭を唄いながら座敷の真ん中に運ぶんや。それが結婚式の大トリの出し物。集まったお客さんは、料理人に花を打ってた(ご祝儀を渡していた)で。

素麺が出とったから、多分、うどんはなかったやろう。ただ、葬式と同じで手伝いしよった人は、まかないで食べてたんとちゃうやろか。結婚式は昭和40〜50年くらいまで家でやっとったな。

ところで、先ほど「イベントがあればドジョウ汁のうどんを作る」と話をされていましたが、ご自分で麺を打つようになったのはいつからですか?
結婚してしばらくしてからかな。最初は主人がうどんを打ってたんやけど、途中からせんようになって、仕方なしに見よう見まねで私が打ち始めた。小さい頃から父が打ったんも見よったし。子どもの頃、自分が食べたんと同じうどんを作ったな。娘から聞いた話によると、亡くなった主人は私が作ったうどんではなくて、違うとこのうどんが生涯で最も美味しいって言ってたらしいけど(笑)。
それはどこのうどんか存知ですか?
昭和13年生まれの主人は高松出身の人やったんやけど、通っていた高松工芸高校で食べたうどんが生涯で一番美味しかったんやって。当時、一杯10円。花鰹とペラペラのかまぼこしか入ってなくて、製図室が食堂代わりやったそうや。家でドジョウ汁やしっぷくなんかの具がいっぱい入ったうどんを散々、食べておいてからにな(笑)。
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