昭和30年代に全自動のうどん製造機があった
- 以前、新田町(高松市)出身の方にインタビューした際、「全自動の機械でうどん玉を作る製麺所が近所にあった」という話を伺ったことがあるのですが、その店のことについて何かご存知ですか?
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その店と同じかどうかは分かりませんが、確かに自動でうどんの玉を作る機械を備えた製麺所が新田町にありました。子どもの頃(昭和30年代)に行ったことがあります。店は家の納屋ほどの大きさでしたが、雰囲気は少し工場のようでした。店の中にあった製麺機はかなり大型で、存在感がありましたよ。
うどんの生地が上から下へとベルトコンベアーで運ばれていくのですが、その途中で延ばしの作業も行われ、最後はところてんのように押し出されて刃で裁断される仕組みの機械でした。
- 製麺所のうどん一玉の値段を憶えていますか?
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お金で買ったことがないので分かりません。家は兼業農家で小麦を作っていたのですが、うどんの原材料になるその小麦を製麺所へ持って行くと麺に換えてもらうことが出来ました。
ただし等価交換ではありません。加工賃として何割かの小麦は差し引かれました。また、麺は持って行った小麦で作ったものではなく、もろ蓋に並べられていたものです。
- 製麺所で手に入れた麺をどんなときに食べていましたか?
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昼とおやつの時間です。小腹を満たす感じで食べることの方が多かったですね。ダシは煮干しと醤油だけで、具はネギやかまぼこ、揚げ、なぜかコンニャクが加わることもありました。
うどんは時候の何かのタイミングや、行事の際に食べたことは一切ありません。小さい頃に外でうどんを食べたこともありませんでした。新田町にはうどん屋や、うどんが食べられる食堂などはまったくありませんでしたから。
喫茶店への立ち入りは学校から禁止されていたが、「アズマヤ」だけはなぜか例外
- 初めて外でうどんを食べたのはいつ頃ですか?
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高校生になってから、高松高校の学食で食べたのが初めてです。何も入っていない普通のかけうどんで、当時(昭和30年代後半)、一杯が80円くらいでした。
学食には確かもうワングレード上のうどんメニューもあって、天ぷらか何かの具がのっていたはずですが、自分はかけ専門だったので詳しくは知りません(笑)。ちなみに、学食はセルフではなく、注文するとおばちゃんがメニューを出してくれる一般的なタイプでした。
店で初めて食べたのは、高松市内の中心部にあった喫茶店の「アズマヤ」です。それも高校生のときでした。当時の高松高校は学生が喫茶店に行くことを禁止していましたが、なぜか「アズマヤ」だけはOKだったんです。女学生がたくさん利用していたので、恥ずかしくてなかなか行けませんでしたが(笑)。